3月7日 芥川龍之介の妻と片山廣子。
今日の体重66.1kg、体脂肪5%。これはたぶんおかしいだろう。実際は12%位と思われる。
最近芥川龍之介のことが気になっている。もともと文章は子供のころ「鼻」を読んでなんだか奇妙な印象を得た、という位で、その後は残念ながらほとんど読んだことがない。
実は今回再び「鼻」を読み直してみたのだが、同じような印象なのだ。
なぜだろうか。
鼻が人並外れて大きな男が、あるきっかけで小さくなり、小さくなってのちの周りの反応に戸惑い、その後またなぜか鼻が戻って安堵する、というストーリーだ。
話はよくわかるのだが、そこにいまいち皆さんがいいね、と思うようなところを感じないのだ。
あるいは「昔はこうした微妙な人間心理を描いた物語がなかったので、新鮮であったが、今ではよくある話にすぎない」と感じ、古い作家、あるいは古典につながる作家で、楽しんで読むものではないかな、教科書だし、という判断であったように思う。
特に昔から「教育的に道徳観を熟成させよう」といった気配のある文章は毛嫌いしてきた。教科書に載っている時点で、これは面白くなさそうだ、と思ったものだ。
読み返して同じような感想になったことにすこしびっくりした。なにか当時の皆さんの琴線に触れる要素を読みのがしているような気がするのだが、今回もそれがわからない。
嫌だと思った自分の要素が実はそれも含めて自分の個性だ、ということだろうか。そうであれば言いたいことはわかるのだが、当たり前すぎる気がするのだ。
ということで、現在芥川は版権が切れているので、100円でキンドルですべての著作が購入できた。100円であっても自分の本である。これからぼちぼち読んで考えてゆきたい。
で、タイトルの件。
芥川は1916年(大正5年)、1900年7月8日生まれで16歳の旧姓塚本文と婚約している。芥川は1892年3月1日生まれであるから24歳のころであろうか。8歳ほどの年の差であるが、旧制中学時代の親友山本喜誉司の姉の娘であるから、イメージとしては親友の妹ほど近くはないにしろ、昔からなんとなく知っていた、ということかもしれない。文の父である軍人塚本 善五郎は、1904年5月に亡くなっているので、7月生まれの文3歳の時であるだろうか。あまり父の記憶はないのかもしれない。文は父の死後母(山本喜誉司の姉)の実家にいたとのことで、それはつまり親友の家に一緒に住んでいる姪、ということになるので、龍之介は若いころからの「文ちゃん」を知っていたのだろう。
旧制中学同級生であれば、今のイメージでは高校時代の親友ということになるのだろうか。
芥川は文と婚約した年でもある1916年(大正5年)6月に、片山廣子の第一歌集「翡翠」の評を「新思潮」に書いている。同歌集は同年3月25日の発行である。廣子は1878年(明治11年)2月10日生まれであるから38歳の時であろうか。芥川は英文学専攻であるので、あるいはアイルランド文学を翻訳する廣子のことを従前より知っていたのだろうか(面識はなかったかもだが)。
龍之介と文は、WIKIPEDIAによると1919年(大正8年)3月12日に結婚した、とある。
芥川は当時海軍機関学校の英語教師をしていたが、2月15日に大阪毎日新聞への入社が決まっており、2月17日からインフルエンザに罹患、3月3日まで病床にあり、翌月まで学校を休んでいた、ということだ。
同年2月28日に芥川は、片山廣子が病床を見舞った御礼の手紙を出している。当時廣子は41歳、翌年従来より病んでいた夫貞次郎を亡くしている。
自身の婚約者との結婚を控えての病床で、廣子の見舞いを受けているが、互いの著作を送りあう関係であったようだ。
片山廣子の死後、芥川から廣子にあてた手紙は、娘の總子によりすべて焼却されたという。
なんというか、文夫人としては精いっぱいの、文句であると感じるのだ。芥川が35歳で自死したとき(1927年7月24日)に、廣子は49歳。文夫人は27歳であったろうか。
(そのころの、龍之介の、廣子の、文夫人のそれぞれの心を考えると、なんというか茫洋とした気持ちになります。。)