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1.6 個性と線と村上春樹。

御厨さと美さんが亡くなった。74歳。イカロスの娘、面白かったなあ。

聖悠紀さんも10月で亡くなった。72歳。超人ロック、素晴らしい作品である。

小林ドンゲさんも亡くなった。96歳。すばらしいビュランさばきであった。


画風や、線の個性、マンガについては詳細な設定や世界観など、

それらに接することで、私の感性も影響を受けた気がする。この世界で邂逅することができて、ありがたいことであった。


今朝の体重67.1kg、体脂肪率12%。年末進行で来年分を書いている本稿だが、この体重と体脂肪率は久し振りではある。先週は千代田区のスポーツセンターが休みで週に一度も運動なしであった。今週もできるかどうかわからないが、可能なら本日行いたいところだ。

ということで、確認したら、毎月第3月曜と年末年始12.29-1.3が休みであった。結構営業している。この前はたまたま第3月曜であったのだ。

すっきりした。


村上春樹 雑文集、P.23およびP.26から引く。

仮説の行方を決めるのは読者であり、作者ではない。物語とは風なのだ。揺らされるものがあって、初めて風は目に見えるものになる。
(P.23)
多くを観察し、わずかしか判断を下さない。それが僕の言う「仮説」のおおよその意味だ。そしてそれらの仮説がー積み重ねられた猫たちがー発熱して、そうすることで物語というヴィークル(乗り物)が自然に動き始めるわけだ。
(P.26)

村上春樹氏の物語を読むと、通常の物語あるいは作者が声高にそのままの形で渡してくるものを受けとってゆくのとは違った感覚を受けていたことに気づく。この文章を読んで、村上氏が敢えてそう意識されていたことがわかる。

受け取った猫たちが自分の心風景に放たれ、あるいはネズミを追って走り回り、あるいは障子に飛びついて爪を立ててずり落ちる。あるはひたすらまどろむ。

私がある時期より、フィクションをあまり読めなくなったことはそのあたりが関係しているだろう。猫のいない物語は、甘すぎる砂糖菓子のごとく、ある程度食べると飽きてくる。だが、猫という栄養素を含んだ村上物語であれば、食べれば食べるほど個人的にがは身になる感じである。

だから今でも村上フィクションが読めるのだ。

同じことをどこかで荒俣宏さんがおっしゃっていた。あれほどフィクションを愛し、自ら訳された方が、である。栄養価の高い猫が含まれたフィクションは、実は多くない。

もちろん猫だけではない。そもそも自身がどのような動物が好きかもあるが、私の場合は幻獣がお気に入りだ。猫などは存在自体がほぼ半分くらいは幻獣が入っているといえるが、蛇やドラゴン、半人半獣などの積み重なった物語も好物である。だがうまく積み重なっていないとだめだ。単なるキャラクターでは、だめなのだ。それが村上さんのおっしゃる「醗酵」であるのだろう。

(エッセイ、雑文、そして物語。村上文章はどれをとっても個人的には大好きですね!)









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