見出し画像

極度のあがり症からパニック障害になって何もかも失った話

自分が発達障害の一種ADHDだと本気で悩んだことがあります。実は今でもその気があると思っていますが、あまり認めたくないので病院には行ってません。

自分は大丈夫なのか?と本気で悩んだのが社会人になった時です。社会人になって人前に話をするとき「死ぬほど緊張する」のです。

とはいえ、一般的に慣れていない場合に人前で話しする時は「緊張する」とよく聞くので、「社会人一年生ということもあり慣れていないので緊張するだけか」と納得していたのを思い出します。

しかし、ある程度時間が過ぎると、私はますます緊張の度合いが増すのに対し、同僚や新しく入ってきた部下は段々と慣れて緊張の度合いが下がっているのが分かるようになりました。


職場は建設会社

画像1

働いていた職種は「大手ゼネコン」。建設会社です。

簡単に説明すると、役所や企業から建物の建設を受注して、設計図通りの建物を作るという仕事です。私が所属していたのは建築科。建物を受注して予算を組み、下請け会社(杭打ちは杭打ちの専門業者、足場を組むのはとびさんなど)を使って建物を完成させて施主さんに受け渡します。

俗にいう「現場監督」です。

この現場監督という仕事、人前で話すことがめっちゃ多い職種です…。

朝は職人さんを全員集めて朝礼。およそ300人を目の前にして、その日現場で考えられる注意事項を説明しなければなりません。

そして3時には現場打合せ。こちらは職長さんだけなので人の数は少ないですが、それでも15名前後はいます。その中で、工期や施工の手順などの打ち合わせを行います。

ここまででも結構辛いのですが、更につらいのが「施主や設計事務所との工程打ち合わせ」。
週に一回あるのですが、シーンとした会議室で工程表の説明をしなくてはなりません。その他、使う材質を選んでもらったり、安全対策の打ち合わせをします。このその他は雑談形式なのでどうでもいいのですが、工程表の読み上げがつらい。。

私を最も悩ませたのが一か月に一度ある「災害防止協議会」です。こちらは下請け会社の社長さんを呼んで現場の安全対策を検討するという会議で法で定まられています。

人数は各下請け会社の社長にプラスして、同じ会社の営業や部長、安全部の部長なども参加してだいたい30人前後になります。この偉い人ばかりの中で、工程表と安全注意事項、併せて30分前後の説明をしなければなりません。これはかなりのプレッシャーでした。


緊張感がとにかくヤバかった

画像2

とにかく毎日が緊張との戦いでした。

朝起きたらまず朝礼が頭をよぎります。まず、今日は何人くらいの職人さんがいるのか、そして安全注意事項は何を言えばいいのか、途中で声が震えたらどうしよう、ヤバいから話す言葉を減らそう、このようなことを毎朝考えていたのを思い出します。あまりにも職人さんの数が多い+自分自身のメンタルがヤバい時はわざと遠回りして遅刻したということも何度かありました。

大体ですが、5回に1回くらいは緊張で声が上ずる、震えるで失敗していたのを思い出します。心無い職人からは失笑されたこともありました。とはいえ、それほど多く話すわけではないのでメンタルを壊すほどのことでもなかったのかな?と思います。

3時の打ち合わせも同様です。多少は緊張しますが、それがメンタルを壊すほどのものか、と問われればそうではなかったといえます。

問題はここからです。

週に1度ある施主との工程打ち合わせは本当につらかった…。施主が4~5人、設計事務所が2人、ゼネコン側が3人、その他、電気設備で4人と合計10人ちょっとなのですが、私が緊張するには十分な人数でした。

大体、10分程度の工程表説明ですが、辛い、本当につらい…。毎回午後1時からスタートなのですが当然のように昼ご飯は食べられません。朝ごはんは食べません。喉も朝から緊張でカラッカラです。会議が始まる頃には緊張でよく分からない状態になっています。紙やコップを持つ手が震えます。当然、5回に1回くらいは緊張で声が震えてしまい、更に息が十分にできないので発声も弱くなります。とぎれとぎれ震える小さな声で説明するのは本当につらかった。そして聞いている周囲もつらかったと思います。

最もつらいのが月に一度ある災害防止協議会。大体一週間くらい前から具合が悪くなってきます。思い出すだけでサーっと顔から血の気が引き、心臓の鼓動が早くなります。その不安を紛らわすために酒量が増えます。協議会が迫れば迫るほど酒量が増えて毎晩吐くまで飲んでいた記憶があります。

当然、楽しかったことも楽しくなくなり、家族や友人との関係も悪くなりました。

災害防止協議会3日前になると「どうやって逃げようか」「何を言い訳に休もうか」ということが頭をよぎります。と同時に迫りくる恐怖に寝ても覚めてもジャックされるようになります。寝ている時でも心臓は速く高く鳴り続け、悪夢にうなされます。

当日は、ほぼ睡眠時間はゼロ。寝ているふりをするだけです。当然のように朝昼のご飯は食べられず、ずっと頭に血が上りっぱなしなので自分が何を考えているか分かりません。現場では間違いだらけ。緊張しっぱなしで心配事があると、全てが上の空となってしまい間違いだらけになるとその時学びました。

災害防止協議会は午後1時。いよいよです。心臓の鼓動は恐らく150回くらい、しかも一回一回が誰かに聞こえるのでは?と思うほど大きいです。手足と尻の割れ目は汗でぐっしょり、顔は高揚して赤黒くなっています。口はからっからで空えずきが止まりません。

いざ勝負。空気がピーンと張りつめて緊張が高まります。目の前の風景が現実のものではないような離人感も感じます。

二回に一回はなんとか成功しますが、失敗が本当にヤバい。週一の工程打ち合わせ同様にヤバいですが、こちらは説明に最低でも30分かかるので本当にヤバいです。途中で声が震え、その震えが更なる緊張を呼びドツボにハマると、永遠に30分近く地獄が続きます。まさに生き地獄、あれほどの地獄は未だに味わったことがありません。

一度、命までヤバいと思ったことがあります。あまりの緊張で心臓が早くなる&一回一回がめっちゃ大きい&不整脈、ここまではよくあるのですが、不整脈がいつのリズムではなく、バラバラに脈を打ちめちゃくちゃ怖くて、更に息がうまくできなくなり「このまま死ぬかも」と本気で思ったことがあります。その時ふと鏡をみたのですが、まるで土に埋まっていたゾンビのように青黒い今まで見たことのない顔色をしていました。20年以上経過した今でもその時の顔は鮮明に覚えています。

その恐怖を味わってから、私のあがり症はますます悪化していきました。


逃げてしまったという罪悪感は末期症状だった

画像3

私のあがり症は悪化の一途を辿っていました。何より、人前であがってしまうことへの恐怖感が増していました。そして次第に生活すべてを「緊張に対する恐怖感」が支配するようになっていきました。ひどい時は一対一で上司に現場の状況を説明しているだけなのに、緊張して言葉が出てこない時もありました。

ある時は「風邪を引いたら休める」と思い、夜、仕事の帰りに真冬の海で何時間も寒さに身をさらしていたこともありました。

またある時は急性アルコール中毒になったら会社に行かなくてもいいかも…と思い、朝方まで強い酒を飲み続けたということもありました。

そして、ついに私は禁断の果実に手を出してしまいました。
それは「ずる休み」。

一番いやな災害防止協議会の時に休んでしまいました。

その時の上司はとてもやさしい人でした。恐らく休んでも糾弾されないだろう…そう思って休んでしまいました。

風邪といって休んだのですが、翌日行くと何となく微妙な雰囲気に。「風邪だというのに全然風邪っぽくない私を見た上司が、まるで私があがり症を回避するためにずる休みした」という風に感じました。これはあくまでも想像ですが、私があがり症なのははたから見ても明らかだったので、今考えても、あながち間違っていなかったのかなと思います。

それで味を占めた私はその後二回ほど災害防止協議会をずる休みすることに。結局、その現場は20回災害防止協議会があったうち、3回くらいずる休みしてしまいました。

それからも、他の現場で数回にわたりずる休みを繰り返していました。

ずる休み、それは私にとってあり得ない行為でした。これでも正義感が強く曲がったことが大嫌いな私は学生時代にずる休みしたことはありません。もちろん、社会人になってからも皆無でした。しかし、あまりの辛さに禁断の果実に手を出してしまった私の心身は、そのダメージに耐えられなくなっていました。

逃げてしまった自分への情けなさ
迷惑をかけてしまった現場への罪悪感
逃げたことを現場の人たちに知られている恥ずかしさ
社会人として絶対にしてはならないことをしてしまったという罪

あがり症による緊張に対する恐怖感に加えて、これら罪悪感が心を蝕み、その葛藤を酒で紛らわすという状態が続いていたある日、自分がうつ病になっていること気が付きました。

何をしても楽しくない
大好きだったスキーに行きたくない
性欲減退
誰とも話したくない
毎日当たり前のように続く下痢
毎朝起き上がれないほどの頭痛、腰痛
友人と遊びにいってもすぐに帰りたくなる

などの症状が出てきました。

そして…自分があがり症と自覚して5年、ズル休みをするようになって2年経過したある時、現場で突然の「激しい動悸&過呼吸&ひどいめまい&目の前の景色が黄色くなる」という症状に襲われました。と同時に意味もなく怖いのです。何が怖いの?といわれたらうまく説明できないのですが、自分がすぐに死んでしまいそうな恐怖や不安に襲われ、その状態が続きました。


医師の診断はまさかの「異常なし」

画像4

慌ててその場にいた上司に症状を訴え病院に連れて行ってもらいました。待っている間も死ぬほど具合が悪かったので、半ば強引に順番を早めてもらい診察を受けました。血圧や血液検査、CT、MRI検査、心電図など色々な検査をした結果、診断はまさかの「異常なし」。帰り際に医師から「慌てさせないでくださいよ」と説教されたのを思い出します。

それから…

異常なしといわれたものの、その日は具合が悪いので帰りました。あくる日、現場に少し遅れて行ったのですが怖い…。めっちゃ怖いのです。昨日感じた恐怖や不安が蘇ってきます。いてもたってもいられなかったので、上司と相談してしばらく休むことにしました。

一週間休んで再び現場に勤務したのですが、やはり恐怖感と不安感は抜けません。誰かと一緒なら和らぎますが、一人にされると憎悪します。ひどい時は運転中に怖くなり運転できなくなることも。

何となくそんな状態によって仕事をしたり休んだりをしていたのですが、現場では使い物にならないので本社勤務に変わりました。しかし、本社で一人でいると不安や恐怖で何もできなくなるという状況に変わりはありませんでした。それは家でも同じで、常に漠然とした不安感に襲われ続けているという状態が続きました。友人たちが心配してお見舞いに来てくれるのですが、常に不安感が付きまとっているので、「一人になりたい」といって帰ってもらっていたのを思い出します。


やっとついた診断は「パニック障害」

画像5

これは何かがおかしい…

多分、何か深刻な病気が隠れているに違いない…

と思った私は色々な病院を転々としました。当時、パニック障害はマイナーな病気であり、普通の病院では診断できないという状態でした。が、やっと見つけた心療内科にて「あなたはパニック障害です」と診断を受けました。

診断にて「これでやっと治すことができる」と喜んだのも束の間、それは始まりだったと分かったのはそれから3日後のことでした。

薬はソラナックスという安定剤とパキシルという抗うつ剤でした。

「これを飲めば治る」という希望はいとも簡単に打ち砕かれました。ソラナックスを飲めばだるくて眠くて何もできなくなる、パキシルを飲めば余計に緊張感が高まりパニックが悪化するということで、継続的に飲むことは不可能に。代わりに頓服としてセルシンを処方されました。セルシンも同じく飲むと安心しますが何もできなくなるほどダルくなります。

結局、一回にソラナックス半錠を飲み、頓服としてセルシンを飲むという形に落ち着きました。飲むと確かに不安感は落ち着きますが、漠然とした不安感はあまり変化はありません。

結局、パニック発作から1年半後に私は会社をやめました。

常務から「復帰できる見込みがないから退社を考えて欲しい」といわれ、自ら会社を辞めるという選択をしました。

当時の私はボロボロでした、薬を飲みある程度落ち着いたら現場に復帰させられ、復帰すると、若干残る不安感や恐怖感による心身へのストレスによりまた具合が悪くなる→休むという繰り返しをしていました。そんな状態に自分でもどうしていいか分からず右往左往してました。

そして先ほどの常務の言葉を最後に退社を決め、送る会などもないまま、逃げるように会社を去りました。そんな私に愛想をつかした妻とも離婚。最愛だった2人の子供とも離れ離れに。私に残ったのは病気でボロボロになった身体だけでした。家族との関係もギクシャクになり、幼いころからずっと仲良く、大人になっても一緒にスキーに行く、合コンに行くなどしていた弟とも喧嘩して、以来、今でも疎遠になってしまっています。

それから3年…休暇を経て今では社会復帰を果たし、違う業種にて普通に業務をこなすという日々を送っています。

退社から数年後に昔の同僚に会う機会があり少し話をしたのですが、昔の上司が「あいつは災害防止協議会の時に嫌だからさぼったダメな奴」という旨の話をしていたと聞かされました。事実、その上司と何度か街で顔を合わせることがあったのですが、挨拶こそするものの、ほぼ無視のような状況でした。


こんな人間がいるということを認知して欲しい

画像6

世の中にはいろいろな人間がいます。たかが10人程度の会議で書いてある文章を読むだけなのに、心臓の鼓動が150回にもなってしまうほど緊張する人がいることは理解しがたいと思います。

しかし、実際にいるのです。この信じられないほどレアなことである、という妄信が「恥ずかしい」という思いに繋がり、それが緊張感を更に高めてしまう、また誰にも相談できないという状況を作り出します。

私は今まで書いたあがり症の悩みを誰にも相談したことがありません。結婚相手にも、親にも、友人にも、もちろん上司・同僚にも。今考えるとそれが間違いだったと思います。相談していれば会社としても対応方法があっただろうし、私も病気にならないで済んだのかもしれません。

ここまでまるで悲劇のヒロインのように自己弁護に徹してきましたが、結局、悪いのは一人の社会人として自分のウイークポイントを会社に相談して対処できなかったことにあります。これをせずして分かってくれなかった会社が悪いとはいえません。ずる休みなどせず相談して対処する、これが社会人がとるべき行動です。

とはいえ、まだ経験が浅い20代、いろいろ歯車がずれて人生が狂ってしまうこともあるとは思いますが。


今考えてもなぜあそこまで緊張していいたのか分かりません。自分でも最初は「慣れてくるから大丈夫」と思っていました。しかし、実際には悪化の一途でした。原因は生まれつき「脳が緊張・興奮しやすい」からだと思います。それ以外はありません。慣れる場合もあると思いますが、私のように悪化する場合もあります。

あがり症は現在では「社会不安障害」という名がついてちゃんと社会的に認知されています。米国での社会不安障害の生涯有病率(一生のうちに病気にかかる人の割合)は約14%といわれ、精神・神経疾患の中では「うつ病」「アルコール依存症」に次いで多い疾患となっています。

もちろん、私が悩んでいた時は認知されていませんでした。

もしあがり症で悩んでいる…という人がいれば、社会不安障害かもしれないので専門の病院で診てもらってください。

あと、この病気は「自分からは言い出しにくい」という特徴があります。なので、できれば会社にて困っている人がいる場合、相談に乗ってあげて欲しいと思います。

ちなみに私のあがり症は周囲にいる人は誰もが分かっていたと思いますが、誰からも声を掛けれることはありませんでした。むしろ、逆に卑下するような態度を取る人が多かったように記憶しています。

企業にしてみれば、人前で発表できないという人材はNOなのでしょうか?私はそうは思いません。発表ができなくても企業の力になることは十分にできます。むしろ、「些細なコト」といえるのではないでしょうか。

私のように我慢に我慢を重ね、得られたのは辛い闘病生活だけだった…というのはあまりにもリスクがありすぎです。このように、する必要のない努力が少しでも減り、皆が生きやすい社会になっていけばいくにはどうすればいいか、皆で考えていくべき問題だと思います。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?