おじさんとの会話(ダスト・エッセイ)

 戸塚駅近くの飲み屋のカウンターで知り合った60過ぎのおじさんは、行動力も財力もツテもある。でも、一体何者なのかは明かしてくれない。マスターによれば、普段はスーツ姿でピシッと決めているらしいが、今日は上下灰色のジャージにクロックスを履いた部屋着で来ている。

 朗らかで威勢の良い正体不明のおじさんは、もう一度昭和の頃のような、地域のつながりを創るには、スーパー銭湯がありゃいい、と言う。互いに孤独者になっていく、日本各地の有り様を変えたい。そんな彼の想いに共感し、僕は耳を傾けた。

 1997年に生まれ。古都のイメージを感じ難い鎌倉市の外れの住宅街で育った。住んでいるマンションの自治会の機能は衰退していく一方で、おじさんが思い返す記憶を、僕は持っていない。
 でも、地方に旅に出かけると、そこの銭湯ないしスーパー銭湯で地元住民同士が、おー、いたのか、などと声を掛け合う様子を見かける。そこに行けば、知っている誰かがいる。そこに行けば、知ってしまう誰かがいる。その地域の人々が、裸で、言葉を交わしながら、その場所を共有している。そんなスーパー銭湯こそが、おじさんの言う、地域のつながりの肝なのかと尋ねた。おじさんは、そうだね、まさに、と言った。

 終電に間に合わせるように、おじさんは主張をまとめた。「スーパー銭湯、それがあればいい。何も、常に一体感が必要なわけではない。つながりを持ったコミュニティを維持するには、たったのスーパー銭湯でつながっていれば、それで十分だ。それなら、こんな時代にだって、難しい話じゃない。そう思うだろ?」。僕は、そう思う、と力強く答えた。そして、深く頷いた。

 家に帰ると、ふと違和を感じた。あのおじさんは、なぜそんなに「スーパー銭湯」に拘るのか。

 なるほど、「数パーセント」か。そうだったとしても、僕は、そう思う、と力強く答えた。そして、深く頷いた。

(2023年6月1日投稿)

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