【連載小説】Berlin, a girl, pretty savage ~Father Complex #1
ベルリンの中心を流れるシュプレー川。その中洲となっているムゼーウムス島の突端に野島梨沙は立っていた。
名前の通りこの中洲には多くの美術館や博物館があり、中央部にはシンボリックなベルリン大聖堂が鎮座している。
小柄で、ミニスカートから覗かせた脚は細く、少年のように痩せた身体をしている。そのくせ頬はぷっくりと丸みがある。
輝くほど艶やかな黒髪はショートボブで、きれいに内巻きにされている。
大きな瞳は母親譲りだろう。
それらのためか歳よりも幾分幼く見える。
8月の高い青空を見上げると、大聖堂のバルコニーから鳩が十数羽飛び立っていく。
梨沙のすぐ背後にはボーデ博物館があり、ドーム型の美しい屋根が遊覧船でやってくる観光客を魅了する。もちろん内部も非常に美しく、ビザンチン時代の彫刻や絵画、珍しい古代からのコインやメダルをも所有する素晴らしい博物館である。
とはいえ、中に入った事はまだない。
梨沙は思い付いた時、感じた時すぐにヴォイスメッセージを送る。すぐに伝えないと気がすまない性分なのだ。
そう言ってセルフィも一緒に送る。既読は付かない。
当然のこと。父である遼太郎はまだ仕事中だ。
語学学校は14時には終わるため、毎日一人であちこち散策している。
次の休日にでもボーデ博物館に連れて行ってもらおうと考え、ToDoリストに追加した。
***
高校1年の夏休み。
梨沙は留学のため、家族と共にベルリンに渡った。家族共に、というのは夏休みだったからだ。母と弟は1週間滞在したのち帰国し、父が残った。
以前にも父の仕事の都合で5歳から10歳までの間、家族でベルリンに滞在したことがある。
言ってみれば第二の故郷であり、日本の小学校へは5年生で編入したがあまり馴染めず、ベルリンに戻りたいと常々口にしていた。
中級程度のドイツ語検定は持っていたものの、少し間も空いたことから改めて言語レベルを上げるために8月いっぱいは語学学校に通い、9月から翌年8月までの1年間、ベルリンのGymnasium(ギムナジウム。中等教育機関。主に大学に進学するための学校)に通う。梨沙が入学した日本の高校の提携先だ。
留学中はホストファミリーの元で1年間過ごすことになる。
語学学校入学に合わせて遼太郎も8月いっぱいはベルリンで仕事をしてくれることになり、キッチン付きのアパートメントホテルに一緒に滞在するのが、梨沙は嬉しくて仕方がない。
なにせ母も弟もいない、大好きな父と2人きりなのだから。
しかしドイツへ移動中の機内で、梨沙は大事なものが手元にないことに気づく。
中学の入学祝いで父からもらった腕時計。
青ざめて今すぐ降ろせと言わんばかりに慌てる梨沙に遼太郎は「時計なんて今はスマホでもいくらでもあるじゃないか。こっちで買ったっていいんだし」と言ったが「そうじゃないの!」と取り乱した。
あれはただの腕時計ではない。 "お守り" なのだ。
どこで失くしたのか、涙目になって途方に暮れる梨沙。帰国した夏希が電話で "梨沙の部屋にあった" と知らせてくれた。
「ね、すぐに送って!」
『えぇ? そんなに大事な物、それこそちゃんと届くか心配にならない? 次にパパが行く時に持って行ってもらうとか』
遼太郎も「今はスマホだってあるし、時間くらいそれでわかるだろ」と言う。
「ダメなの。そこまで待てない。ねぇお願い」
夏希に頼み込むと、準備ができ次第送ってくれるという。
お守りは手元にないが、この1ヶ月は父がいてくれるから、それがお守り代わりになるか、その間に届いてくれれば、
と梨沙も気持ちを落ち着かせようとした。
***
学校が終わると本来は山のような課題を一刻も早く片付けなければならないところだったが、梨沙はSupermarkt(スーパーマーケット)に寄って晩ご飯の買い出しをし、甲斐甲斐しく料理を作ろうと試みる。
しかし以前叔父の隆次からも指摘されたように、梨沙は料理がすこぶる下手であった。
絵を描くようにはいかないものだ。
出来上がった料理を見て梨沙はうんざりと舌打ちをし、頭を抱える。
それでも遼太郎は「食べられないことはない」と口に運んでくれる。ただし「出来れば無理に作らなくていい」とも言われた。
「ママみたいに上手く作れない。すごく悔しい。上手になりたい」
「梨沙は料理を作るのは楽しいか」
梨沙は少し口をへの字に曲げ、小さく首を振った。
「楽しくもないのに無理に作らなくてもいいんだぞ。そもそもここでは夕食はそんなに凝らなくていい」
「だって一緒に食事ができる唯一の時間だもん。それにパパ、家ではいつもママのご飯食べてたし、こっちで外食ばっかりなんて良くないと思って」
「そんな気遣いで作ってくれようとしてるのか。泣けてくるな」
本当は毎日こんな食事が出てくるとたまらないなと思ったが、遠回しに話しても梨沙には伝わらない。そして娘の心遣いには父親として素直に嬉しかった。
やがて梨沙は山のような課題を思い出し、仕事で疲れている遼太郎に泣きついて手伝ってもらう。
そうして「夕食を作ることより課題を先に終わらせること」と嗜められる。
そして夜。
寝室はツインのベッドが置かれている。遼太郎が寝室に来てベッドに入ろうとすると、梨沙も同じベッドに潜り込んでくる。もう一つが空いてるのに…。
初めは「いくつになったと思ってるんだよ」と追い返そうとする遼太郎だったが、梨沙は構わず抱きつく。そして嬉しそうにふふふ、と笑う。
遼太郎は堪らないな、と思う。どうかそれを、信用おけないような奴に見せるなよ、という親心…けれどすぐに "信用できる奴ならいいのか" と苦笑する。
子供の頃はよく、遼太郎とこんな風に一緒に眠った。
自分の部屋が出来、中学に上がる頃にはさすがに少なくなったが、この1ヶ月は違う。
この1ヶ月が過ぎたら、生まれて初めて長い間、離ればなれになる。
梨沙は母とは違う父とのつながりを感じていた。何というか…深い、強い安心感というか、共鳴。
自分の特性に名前がついていることを知ってから、それは父から譲り受けたものなのだと思うようになってから、殊更愛しく思うようになった。
梨沙は遼太郎の胸で鼻を鳴らす。昔と変わらない、大好きな匂い。
鼓動を聴くと心の底から落ち着いた。まるで自分が出てきた胎内は父親だったのではないか、と思うほど。
「お前はもういい歳頃なんだから、いつまでもそんなことしてたらだめなんだけど」
いいの! と梨沙は遼太郎を見上げ睨むが、すぐにまたその頬を胸に擦り寄せる。
遼太郎の脳裏にはいつか言われた夏希の言葉が過ぎる。
『梨沙も甘え過ぎだけど、あなたも甘やかし過ぎだと思うの』
確かにそうだが…。
子供との距離感は難しい、と遼太郎はつくづく感じる。
「ダメ」と突き放せば、梨沙は途端に泣き出すか不貞腐れてしまう。
そうすると遼太郎もそれ以上強く出られず、結局好きにさせてしまう。
辛い思いをさせたくない。孤独を感じさせてはいけない。
そんな思いが最初の子では前のめり過ぎたようだ。
現に梨沙の弟の蓮から「お姉ちゃんばかり相手にしないで、僕のことも見てよ」と言われた時はショックだった。
しかし蓮はややだらしない姉を見て "自分は男らしくしっかりしないといけない" とでも思っているのか、以降も駄々をこねるようなことはない。その姿がまた余計に健気ではある。
抱きつく梨沙のされるがままである事に、遼太郎はため息をついた。
敏感でちょっとした物音、寝返りですぐに目覚めてしまうくせに。
けれどそんな風に目を覚ましても、目の前で寝息を立てる遼太郎のまつ毛を眺めると、梨沙は満たされた気持ちで安心して再び目を閉じるのだった。
#2へつづく
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