食事と音楽と男と女 #1
佐橋さんとの出会いは、ちょっとおかしな話だった。
路肩に停めた軽ワゴンから彼が降りてくるところを、たまたま私が通りがかった。
仕事のユニフォームか、黒いYシャツに黒ズボン姿。腕まくりをしたシャツから伸びた肘から手首にかけての腕が、好みだった。
少し筋が浮いて、ほどよく引き締まった肉付き感。
そこに惹かれた。
彼は目の前の建物の中に消えて行った。後ろ姿は細身で、背が高い。
看板に「Le petit rubis」とある。ワインバーかな、と思った。
その夜、私はその店に行ってみた。
ワインは、まぁ、飲めなくはない。
思ったよりムーディな店で、1人の私は少し戸惑った。
やや薄暗い店内、テーブルにはキャンドルが置かれている。
それほど広い店ではなく、カップルや女性2人組といった客がテーブルを埋めている。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
若い男性店員が声をかけてきた。やはりあれは店のユニフォームなのだろう。この彼も黒シャツ・黒ズボン・黒のギャルソンエプロン姿だ。
私はカウンター席に通された。渡されたメニューを開く前に店内を見回し、彼を探した。
…と思ったが、そういえば顔をよく憶えていなかった。
しかし店員もそう多いわけではない。先ほどの彼は背格好も明らかに違うから、カウンターの向こうで料理を作っている人…いや、違う。体格が全く違う。
いないのか。裏方の人なんだろうか。
ため息をついてメニューからグラスの赤ワインと、鴨ハムを頼んだ。
静かに流れる店のBGMはAnn Sallyだった。
以前、よく聴いていたのを思い出す。あの頃は今よりもっと自由で、それほど悩まなくて済んで…。懐かしさか、じんわりと胸が締められるような気がした。
右手側から、ワイングラスが置かれる。
その腕にハッとした。
「今日のグラス赤は、Côtes du RhôneのSyrahです」
手から腕、そしてその声を見上げた。
彼だ。
「あ、ありがとうございます…」
不意を突かれたので咄嗟に俯く。恐る恐る見上げると、彼はカウンターの内側へ入っていくところだった。
耳と襟足にかかる、少しだけ長めの髪。
グラスの脚を握る手が微かに震えた。妙な一目惚れだと思った。
彼はソムリエなんだろうか。
鴨ハムは、若い男性の方が運んできた。
カウンターの向こうの厨房に、彼が姿を現した。
料理担当の男性と一言二言交わし、皿の上に彩りを加えていった。
彼の仕事をする手元を、じっと見ていた。
何かちょっと凝ったものを頼んだら、彼が手を加えてくれるのかな。
それを期待して、ホールにいる若い方の店員にメニューを頼んだ。
でも1人だから、あまりガツンとしたものは無理だし…と悩んでいると、若い店員が声をかけてきた。
「もしボリュームで悩まれているようでしたら、少なめに出来るものもあるので、何なりと言ってくださいね」
腰を折って目線を下げてくる、気持ちの良い対応。この子は大学生くらいだろうか。
「ありがとうございます。どうしようかな…」
「赤ワインがお好きですか? 先ほどがお肉系だったので、別の前菜でも良いですよ」
「どちらかといえば赤が好きですけど…お料理次第かな」
別のテーブルから声がかかり、彼は「すみません、ゆっくり選んでくださいね」と呼ばれた方へ向かって行った。
すると、正面から声がかかった。「ワインは赤じゃなくてもいいんですか?」
見ると、それはあの、腕の彼だった。
「あ、は、はい」
「もし肉々しいのを避けたいなら、タルト・フランベっていうピザみたいなのがありますよ。うっすいから、たぶんボリュームは大丈夫。アルザスの名物だから、もう1杯飲んでもいいならアルザスの白をお勧めします」
「あ、では、それで」
私は驚いて、ほぼ言いなり。
改めてきちんと顔を見たけど、私より5~6歳くらい年上だろうか。
整った顔に無精髭を生やしていて、真っ直ぐな眉と目が印象的だった。
普通は先にそういうところに目が行くはずなのに、私は順番がおかしい。
そして、艷やかだけど、低すぎない落ち着いた声をしていた。
やがて注文したそれが彼によって運ばれてくる。
空になった赤ワインのグラスを下げ、代わりに白ワインのグラスが置かれる。
そしてお皿には、薄い生地に白いソース、玉ねぎの細切りと細かくされたベーコンのようなお肉が載ったピザのようなもの。
これがタルト・フランベ。
給仕の際に見た、左胸のネームには「SAHASHI」とあった。
「ありがとうございます」
彼の目を見て、お礼を言った。彼は口角をちょっと上げて、微笑んだように見えた。
タルト・フランベは白いソースがチーズのような、サワークリームのような濃厚さがあるけれど、その薄さでぺろりといけた。白のワインとも確かに合う気がする。
アルザスなんて行ったことないけれど、こういった名物の組み合わせはいいなと思い、ここはしっかりしたフレンチビストロなのだと改めて思った。
会計は若い店員が対応した。彼はNAKAMURAくんというらしい。
サハシさんは、あれっきりだった。
「お一人でも、ぜひまたいらしてくださいね」
ナカムラくんは可愛らしい笑顔をする人だった。
はい、と答えて、店の奥に目を向ける。
サハシさんはカウンターの中なのか、姿は見えない。
後ろ髪を引かれるような思いで、店を後にした。
きっかけは、そんな感じ。
* * * * * * * * * *
2日ほど空けて、再び店を訪れた。前回より少し早目の時間に。
この前と同じ、ナカムラくんが出迎える。
「カウンターでお願いします」
私は先にそう伝えた。彼はにっこり微笑んで「どうぞ」と通してくれた。
席に着く前から、カウンターの中にサハシさんの姿を確認した。身体が一瞬熱くなる。今日も捲くった袖からの腕に目が行ってしまう。
着席する際に目が合い、向こうも「あれ?」という顔をする。私は軽く会釈をした。
「ご近所なんですか?」
メニューを差し出しながら、訊いてきたのはナカムラくんだった。実はそんなに近くはない。歩けなくはないが、わざわざ来るレベル。
「それほど近所というわけでもないんですけど…よく通る道なので」
半分正直に答えた。そうでしたか、どうぞごゆっくり、幼気な笑顔で彼は一旦下がっていった。
メニューを開く。今日は前回よりちゃんと食べよう、と決めていた。
「今日も最初は赤にしますか」
そう訊いてきたのは、カウンターの中の、サハシさんだった。
私はまた動揺してしまい、しどろもどろになる。
「あ、ど、どうしようかな…」
「仕事帰りですか」
「は、はい」
「今日はちょっと暑かったし、迷っているなら泡なんか、スッキリするんじゃないかな」
「あ、じゃあ、それで…」
何も考えてない人と思われるかもしれない。後悔する。
でも、それ以上は無理だった。
「お疲れさまです」
そう言ってサハシさんが差し出したフルートグラス。泡が立ちのぼる。
「ありがとうございます」
飲みやすさにホッとした。確かに今日のような陽気だったら、こういう喉越しがいい。
「生ハムメロンとかって、どう思います?」
サハシさんがカウンターの向こうから唐突に訊いてくる。立て続けに話しかけられて、少々動揺する。
「あり、だと思います」
「じゃあ、今の時期ならではの桃と生ハムのサラダ、お勧めしますよ。泡に合う」
「じゃあ、それで…」
言った後、さすがに自分で吹き出した。
「なんか私、じゃあそれで、しか言ってないですね」
「いいんじゃないですか? 僕もお客さんの様子見て勧めてるので、僕としてはしてやったりですけど」
サハシさんは淡々というわけでもなく、にこやかというわけでもなく、そう言った。
私は益々、彼に好感を抱いていた。
桃と生ハムのサラダは絶品で、忘れられない味だった。
その日はメインのお肉と赤ワインがグラスで2杯、デザートまで食べて、ほろ酔いの大満足になった。
サハシさんはサーヴする時に、ワインにあまり詳しくない私に難しい話はせず、イメージやニュアンスで伝えてくれて、逆にありがたかった。
「俺はソムリエでもなんでもないので、難しいことは言えないんですよ」
なんて言ってたけど、わかりやすく伝えるほうが難しいのではないか、と思った。
会計時にナカムラくんが「今日はガッツリ行きましたね、いかがでしたか?」と訊いてきた。
「すごく美味しかったせいで、食べすぎたかも」というと、ニッコリと笑った。
店を出る前にカウンターの向こうに目を向ける。
サハシさんと目が合った、ような気がした。
「また来てくださいね」
ナカムラくんの声に、はい、と頷いて店を出た。
初夏の夜風が、心地良かった。
酔い醒ましに歩いて帰るには、ちょうどいい。
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#2へ つづく
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