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【連載】運命の扉 宿命の旋律 #16

Concerto - 協奏曲 -


2年生になり、予想通り2人は別々のクラスになった。

コース変更でほんの少しだけ余裕が出来た萌花は、稜央が音楽室にいるとわかれば、放課後に彼の元に通った。

稜央も萌花が訪れるのを心待ちにするようになった。

初めの頃は2人になると、稜央は音楽の話ばかりしていた。

「バッハの楽譜は本当に素晴らしいんだ。舌を巻くほど美しくて緻密で、意外性があって驚かされる。どんなゲームやパズルなんかも敵わないんだ」

萌花は初めこそそんな話に戸惑ったけれど、合点のいかなそうな顔をしている萌花を見かねたのか、実際に楽譜を持ってきて説明しながら弾いて見せてくれた。

「カノンって知ってるだろ?」
「同じ旋律を追いかけるやつ…だよね?」
「まぁ…本当にかんたんに言えば。今日持ってきたバッハの『フーガの技法』から『拡大及び反行形によるカノン』ってやつは反行、つまり1stパートと2ndパートの楽譜を上下反対にし、更に2ndの方は音符の長さを倍にしているんだ。この曲の面白いところは曲のちょうど真ん中あたりで1stと2ndが反転して、2ndに冒頭の主旋律が見られること…」

萌花があまりにも真剣に聞いて眉間に皺が寄っていることに気づき、稜央は苦笑いした。

「弾いてみるから、聴いてて」

そして稜央はカノンを弾きだした。
先程の解説の通りに左手が右手の後を、逆から倍の長さにして追いかけていることになる。
そしてまた解説通り、中盤で右手と左手が入れ替わったようなメロディを奏でた。

※ピアノアレンジがありませんでした

曲の最後は見事に調和して終演する。

萌花は口を半開きにして見惚れていた。

「え…、すごい。稜央くんすごいんだけど」
「すごいのは俺じゃない。これを作ったバッハがすごい」
「ま、そうなんだけど…」

自分を見つめる萌花の瞳に、稜央は照れた。
照れて、どうしていいかわからずに目を逸らした。
誰かからそんな目で見られたことが今まで一度もなかったから。

ただ稜央も嬉しかった。

それからも楽譜の解説をすると萌花の眉間に皺が寄るので、それが面白くてわざと難しい理論の話もしたが、次第に曲だけ弾くようになっていった。

眉間の皺より、目を閉じて曲を聴いている時の萌花の表情がもっと良かった。
自分の中で曲の世界を展開させているんだな、と感じられた。
なんて美しい姿なんだろう、とも思った。

自分の紡ぐ音が、彼女の中で完全に再生されることが、稜央の喜びになった。

* * *

いつからか稜央は、先に音楽室で待っているのではなく、萌花と待ち合わせの時間を決め、彼女の手を引いて音楽室に忍び込むのが習慣となった。

稜央は自然な流れでピアノの前に座る。まるで本物のピアニストのようだった。

萌花はそのそばに椅子を寄せてきて座る。特等席だ。
うっとりと稜央の横顔を見上げる。

「稜央くん、今日は私のために何か1曲弾いてってお願いしたら、何を弾いてくれる?」

萌花が尋ねると、稜央はしばらく目を閉じた。何が良いか考えてくれているのだろう。
今、軽く眉間に皺の寄った彼の瞼の裏には、私のことを描いてくれているんだと思うと、萌花はその時間すら嬉しかった。

どれくらいの時間、そうしていただろうか。
不意に稜央が目を開く。

「俺、あんまりレパートリーがないから、他にもっといい曲があるかもしれないけど」

そう言って稜央は両手を鍵盤の上に置き、目を閉じて小さく息を吸うと、軽やかに長い指を滑らせた。

萌花も目を閉じ、音に集中した。

静かな闇の中に一筋の光が差し、その光の先に清らかな泉がある。
その泉に雫がどこからかこぼれ落ちている。
または降り出した雨粒が、地面の上を踊るように跳ねる。

やがて光は増して行き、水は跳ね、流れて、高いところから谷へ落ち、また光の中を小さな川となって流れていく。

ラヴェルの『水の戯れ』だった。
ピアノでここまで水を表現できるのかと、驚愕するほどだった。

萌花は目を開き、稜央の弾く姿を見つめた。

なんて美しい曲なんだろう。留まること無く流れ続ける、活きいきとした曲。

普段の稜央からこんな "生" を感じる曲を奏でることが想像出来なかった。
その意外さが自分のためなのだと思うと、萌花は胸が震えた。

静かな余韻を残し、弾き終えた稜央は横目で萌花をちらりと見た。
萌花は感激して「すごい」以外の感想を漏らすことが出来なかった。

「それ、ラヴェルの『水の戯れ』だよね…。どうしてその曲を選んだの?」
「よく知ってるね。萌花はなんか…瑞々しくて清くて…この曲がイメージに湧いたから」
「えぇぇ…嬉しい…稜央くん本当に上手…ってそんなありきたりな褒め言葉がもどかしいくらいすごい。だって目を閉じて聴いていて、本当に水が跳ねたり流れたりしているのイメージしてたもん。ピアノでそうやって表現出来るなんてすごいよ」

稜央は少し照れたように口の端を歪めた。

「ありがとうね。本当に嬉しい」

ちょうど背後の窓から薄く西日が差し込んだ。

それを受けた萌花の瞳があまりにもきらきらと輝いていたので、稜央はそれがたまらなく眩しく感じ目を逸らした。

萌花が呼びかける。

再び萌花を見ると、彼女は目を閉じていた。

稜央はその唇にそっと自分の唇を重ねた。

まるで声にならない会話をするように、何度もキスをした。




#17へつづく

※ヘッダー画像はゆゆさん(Twitter:@hrmy801)の許可をいただき使用しています。

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