【連載小説】Berlin, a girl, pretty savage ~Moment's Notice #21
3月の半ば。学校は3週間の春休みに入った。
しかし3月とて春の訪れは日本に比べたらまだまだ遠い。
そんな中、若手アーティストが集まる音楽や絵画のイベントが旧共産圏時代の建物で開催されることになり、Emmaに勧められて年明けから作品を描きためた梨沙も参加した。
広い建物内は学校または昔のオフィスのように大小の部屋があり、写真やアート、雑貨などクリエイターの作品が並び、広めの部屋では音楽ライブも行われている。そう、どことなく日本の学校の文化祭のようだ。
梨沙はタッチの異なるいくつかの絵を展示した。非常に繊細な線と色使いで描いた、川べりに咲き乱れる桜。
または幾何学的なタッチで描いた海岸沿いの高層マンション群。
多くは梨沙の故郷・東京を描いたものだった。
帰国子女として過ごした小・中学校ではつらいこともたくさんあって、早くベルリンに帰りたいと一心に思ってきたのに、今回留学生としてドイツで生活を始めると、自分は所詮ドイツ人なわけではない、自分はどうしたってここでは "異邦人" なのだ、と考えるようになる。
居心地は日本よりむしろ良い。それなのに。
私が生まれたのは確かに日本で、自分は日本人である。
当たり前のことを、改めて感じるのだった。
*
雪もちらつく、とある週末。
Emmaとその恋人がギャラリーに遊びに来てくれた。彼女は落ち着いた、聡明な印象の女性で名をIsabellaと言った。司法事務所で働いているという。Emmaより8つ歳上、梨沙の10歳上だ。
「よろしくね。Emmaからよく話は聞いているわ」
握手を交わす時、人見知りではにかんだ梨沙をにこやかに受け止めてくれた。
「すごいわね。全部同じ人が描いたとは思えないくらい作風のバリエーションが多いのね。まるでパブロ・ピカソのようだわ」
Isabellaはそう感想を述べた。
「リーザの好きな人の絵はないの?」
Emmaがいたずらっぽく微笑んでそう尋ねると、梨沙は首を横に振った。
遼太郎の存在は自慢もしたかったが、見世物にもしなくなくて、展示は避けた。Isabellaは "梨沙の好きな人" の話を訊いたことがないのか、見たいわ!と瞳を輝かせた。またの機会に、と梨沙は答えた。
梨沙の絵は好評で、何人も足を止めていった。その度にEmmaがマネージャーのように「この子が描いた絵なのよ!」と声を掛けるので、その度に梨沙はペコリと頭を下げた。
そして作品や、作品を見たり中には買ってくれもした人たちと一緒に写真を撮った。Emmaがアーティスト・梨沙の姿を日本の家族に見せてあげようと提案したのだ。
「リーザはこんなにすごいんだぞ! って、自慢してやらなきゃ!」
本人以上にEmmaが楽しんでいるように見えた。
*
小1時間もするとさすがに梨沙も愛想を振りまくのに疲れ、Emmaがそれを気遣ってか、
「私たちもちょっと他のエリアをぷらついてみようよ」
と提案し、3人は隅から順に部屋を見て回った。
どこもさすがにクオリティの高い作品ばかりで、梨沙も自分の感性に合った作品の前で足を止めると、アーティストと会話をしたりもした。
ふと、ある部屋から聞こえてきたピアノジャズに足を止めた。
「あ」
それはJohn Coltraneの『Moment's Notice』のピアノトリオ・ヴァージョンだった。
これ…、稜央さんが弾いていたやつ。
瞬時に切なさで胸がキュッと締め付けられる。
ふと、彼はどうしているだろうか、と考えた。
ピアノを弾く姿を思い出そうとするが、それはもはや稜央ではなく、やや若い頃の遼太郎に置き換わる。
もう彼の顔も声も忘れてしまった。
全て遼太郎で上書きされてしまった。
激しく、しかし一瞬で燃え尽きる花火のような恋だった。そもそも恋と呼んで良いのかわからない。
ため息をついて軽く目を閉じ、ピアノが流れてくる部屋を通り過ぎようとしたが、
「リーザ、ちょっと聴いていかない?」
Emmaが引き止めた。よりによってと思ったが、Isabellaもいる手前、従うことにした。
部屋に入り、一番後ろの出入口近くの席に、3人は並んで座る。
曲を聴きながら甦るのは、12月のベルリン中央駅で彼を2時間以上待ったあの日の事。
夢中で、必死で、彼を待った。
でもそれは彼のことが好きだったから、というよりは彼の向こうに遼太郎の姿を見たからだ、と今ならば思える。父が言った通りだ、と。
所詮、自分が追いかけているのは昔も今も、どんな時でも父なのだ。
とはいえ。
どうしたって世間的な後ろめたさがある。それに父は自分を恋人として受け入れることは絶対に、ない。
そういう意味では梨沙にとって稜央は、誰にも咎められない、救いの存在のはずだった。
演奏が終わると観客は拍手を送ったが、梨沙は一人深いため息をついた。
すぐに演者の入れ替えが始まり、ガットギターを持った男性が舞台の椅子に座ると、ウッドベースとヴァイオリンが続いた。最後に20代半ばくらいの、黒い髪の女性がマイクを持って登場するとパラパラ、と拍手が沸き起こった。
やがてステージ上の女性が静かに、艶やかな声で歌いだした。
優しい歌声が包み込む。フレンチシャンソンの『Que reste-t-il de nos amours』の英訳版『I wish you love』だった。
ポロリと、梨沙の頬に涙が落ちた。
儚く、あっけなく散っていった稜央への想い、そして "My breaking heart and I agree" 確実に叶わない遼太郎への想いが交差して。
「リーザ、何か哀しいことでも思い出したの?」
Isabellaは訊いた。梨沙は黙ってEmmaを見る。
Emmaは梨沙が稜央に振られたことを知っている。そして梨沙の気持ちが、今は以前のように父親に戻っていることも。
Emmaから見れば、どちらも哀しいことだと思った。
Emmaはあることを思いつく。
「ね、リーザ。あなたやっぱりアーティストとして活躍していくべきよ」
「どうしたの突然」
Isabellaがやや驚いた様子で訊いた。
「リーザはもっと活躍して、その名前を世界中に轟かせたらいいのよ」
「Emma…急になによ。そんなの無理に決まってるじゃない」
「やってもいないのに決めつけたらダメよ。ね、このイベント期間中にもう1作品、大きなもの作ってみようよ。間に合わなかったら個展でも何でもいいわ。発信するのよ」
Emmaはもしも梨沙の名が通るようになったら、きっとあの彼も『あの時のあの娘だ』と連絡してきてくれるかもしれない、と考えた。
無謀は承知だが、小さなことでもやらなければ何も始まらないし、奇跡も起こらない。
#22へつづく
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