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【連載小説】Berlin, a girl, pretty savage ~Moment's notice #19

康佑は年明け初日の学校で梨沙の後ろ姿を見かけた時に「梨沙!Frohes neues Jahr!(明けましておめでとう!)」といつもの調子で挨拶したが、振り向いた彼女はいつもの調子ではなかった。

彼女の顔は一瞬強張り、そしてすぐに憂いを秘めた表情を浮かべた。いつものように怒って、プイッと顔を背けたりしなかった。

「…梨沙…?」

何も答えず彼女は去った。それ自体はいつものことだったが。

一瞬ヒヤッとするほど、妖艶な色気を感じたのだ。ほんの一瞬だが。

「あいつ…冬休みの間、何かあったのか…? 男でも出来たんかな…」

康佑の胸に小さな不安が渦巻いた。

「Morgen Lisa!」

留学生クラスメイトのJuliaが声を掛け、それにも一言「Morgen」とだけ返事をし、手にしていたタブレットに目を落とした。

「リサ、年明けからずっと、ものすごく勉強熱心だね」
「うん…さすがにあっという間に3ヶ月過ぎて、ちゃんとやらないとって思って」
「今までもちゃんとやっていたじゃない」
「ううん、約束してるの。一番の成績取って日本に戻るって、家族と。今までのままじゃだめなの」
「へぇぇ! 偉いんだね!」

梨沙はわずかに笑みを浮かべただけで、また手元に目を落とした。やがて教師が入室して授業が始まり、梨沙は真剣な眼差しを向ける。


冬休み中、遼太郎とたくさんの約束をしたのだ。そのうちの一つ。

感情をなるべく抑えて。穏やかに過ごしてくれ。
俺がいるから、何かあれば俺にぶつけたらいい。

それ以来梨沙は頓服を飲んでいない。感情の波をコントロールできるように夜は瞑想を取り入れたりしている。外的刺激をあまり受けないようにするために、学校でも大人しく過ごすようになった。

授業が終わればまっすぐ家に帰り、MutterとEmmaと一緒にランチを取る。その後は、Bibliotechビブリオテーク(図書館)に向かい、勉強をしたり絵を描いたりして過ごす。

お気に入りは、年末家族で訪れたベルリン・フィルハーモニーの近くにある、Staatsbibliothek zu Berlin(ベルリン国立図書館)だ。
建物の設計者はフィルハーモニーと同じく、ハンス・シャロウンである。建築物好きの遼太郎が「数あるベルリンの図書館の中で最も美しい」と評していたから、訪れるようになった。
開放的で、高い天井、広いデスク、白い階段の配置も非常にドイツらしい洗練のされ方と感じた。

白い館内はそれだけでも明るく、凛とした空気を際立たせている。

そして夕方、少しの間席を離れ、パブリックスペースに移動して電話を掛ける。

2人のやりとりは以前よりも短くなった。梨沙が1日の出来事やどんな感情を抱いたかを伝えて、遼太郎はそれをただ静かに聴く。振れ幅がないことがわかると、安心したように表示を緩める。
そして

『Bis Morgen』(また明日)
「Gute Nachat」(おやすみ)

と、お決まりの挨拶と指先の投げキスを送り合う。今はもう、遼太郎も毎回返すようになった。

会話が短くなっても寂しくない。
目を閉じてすぅっと鼻から息を吸う。
大好きな遼太郎の匂いを思い出して、また明日、と心で繰り返す。


***

一方、当然ながら稜央はちゃんと生きている。

元旦早々、メールアカウントを削除したのは、遼太郎からの連絡があったからだ。

まだ実家でのんびりと過ごし、そろそろ寝るかという頃にメッセージが入った。母の桜子が近くにいたから、一瞬ヒヤッとした。

梨沙からのメールが相変わらず届いているだろう?

稜央は正直に「届いている」と返信した。
すると即座にレスが来た。『さっさとアカウントを消せよ』と。

稜央は「ちょっと友達に電話してくる」といい、家の外に出て遼太郎に電話を掛けた。

「急にどうしたの?」
『毎日お前にメッセージを送って、返事が来るのを待ち続けている梨沙を見るのは耐えられないんだ。二度と接触するなって約束だからな』
「それはわかってるよ…」
『捨てアドレスを教えたって言ってたよな? 消したって影響ないんだろう?』
「まぁ…それは…」
『娘に関心を持ったとは言わせないからな』
「そ…、それはないから…」

わかった、すぐ消すと言って電話を切った後、スマホにぶら下げたキーホルダーが目に入った。
梨沙がくれた、ベルリンベアのキーホルダー。

ため息をついてメールアプリを開き、アカウントを削除した。
削除したけれど、梨沙のアカウントは控えておいた。これまで届いたメッセージもアーカイブにした。

何故、完全に消さないのか。

そもそも梨沙は、他人じゃない。あの父の娘・・・・・なのだから、関心がないはずがないのだ。

稜央はベルリンベアを指で弾きながら、複雑な気持ちを抱えていた。


翌日には遼太郎から『アカウントの対応、ありがとう』とメッセージが入った。梨沙からメールが届かない旨でも聞いたのだろう。彼女がどんな反応をしたのか気になるが、これでもう彼女から・・・・連絡が入ることはない。

リビングでは桜子と陽菜がこたつに入り、正月のバラエティ番組を観て笑っている。
梨沙は、陽菜の8つ歳下ということになる。本当に全く似ていない。そりゃ、2人にしてみればなんの血縁もないのだから、当たり前なのだが。

でも自分から見たら、2人は同じ "妹" なのだ。
不思議な気持ちだった。

陽菜もほぼ父親不在で育ち、満足のいく生活は送ってこれなかったかもしれない。でも明るく自由闊達で、運動部にもずっと所属していたから体格もいいし頭もいい、昔から頼りがいのある女の子だった。

片や梨沙は、高校からドイツに留学して、色白で育ちの良さそうな顔をして、自分みたいにヒョロヒョロしていて、どこか危なっかしい。
梨沙はどちらかと言えば “父親似の自分に似た” 妹である。
同じ妹なのに陽菜とはまるで対照的だった。まるで陰と陽だ。

ショッピングモールで声を掛けてきた時の、おどおどしていた時の顔。
真冬の寒い駅で、自分のことを2時間も待って、はにかんで絵を渡してくれた時の笑顔。
日本で会うことは出来ないと突っぱねた時の、絶望に満ちた顔。
交番から連れ出した時の、泣きじゃくっていた顔。

何だか妙に、梨沙が不憫に思えてならなかった。
籠に閉じ込められた鳥、あるいは羽根の折れた蝶、を見たような気がした。


***

梨沙が通っていたPsychotherapie(心理カウンセラー)も、1月の終わりの通院が最後となった。だいぶ落ち着いてきたからもう必要ない、と梨沙が伝えた。

Mutterは週に1度、遼太郎への状況報告を入れていたが、年明け以降は気にかかることがほとんど無く、むしろ物静かになり喜怒哀楽もあまり出さずにいることを心配するくらいだった。

『もちろん、楽しいことやおかしいことがあるとちゃんと笑ったりするのだけど、怯えたり、不安そうにしていたりっていうことはほとんどなくなったわ。リーザは環境適応能力が意外と高いのかもしれないわね』

その言葉に遼太郎は静かに微笑んで「あなた方のおかげです、Vielen Danke」と言った。

電話を切った遼太郎は、小さくため息をつく。


年明け梨沙と2人で過ごした、あの夜。

私たちは共鳴している。
私たち、お互いの感情が、同じ色で、同じ律動で身体中を震わせていくの、聞こえているはず、感じ取っているはず。
だからきっと、理性が突き放そうとしても、本能は従いたがっている。

そう言った梨沙に、正直遼太郎はたじろいだ。唇を噛み締め、あらゆる感情を噛み殺した。

無茶苦茶なこと言うな…。梨沙、お前は無茶苦茶なんだよ。

そんなこと、声には出せない。だから自分に言い聞かせるように、胸の内でそう繰り返した。
ただあの時はもう、梨沙に屈するしかなかった。梨沙の言いなりになる外、当面の彼女の心の安定は得られないと考えた。

自分への想いを断ち切れるのなら、男だろうが女だろうがどんな相手でもいいと言った遼太郎だったが、実際にその相手となったのが、自分の息子だった…。

そんなあり得ないことが起こった。諦めさせるために、振り出しに戻ったようなものだ。

遼太郎はせめてShulz家や学校に迷惑をかけないように、離れている間は梨沙に屈することにしたのだ。
自分の心身にどれだけの事を起こすとしても、それが梨沙の身に起こるよりはマシだと考えた。






#20へつづく


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