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俺か、俺以外か。

初めて彼をテレビで見たとき、
正直「また変なのが出てきた」と思った。
今思えばそこには、多少の軽蔑さえあったかもしれない。

ホストという非現実的な世界の住人。
それだけでも十分なのに、そこに輪をかけた超個性的なキャラクター。

私は、完全に色眼鏡で、彼を見ていた。
でもきっとそれは、私だけではないはずだ。


けれど気が付けば、今、
多くの人が彼の魅力に惹かれている。

そういう私もその1人で、
少しずつ変わっていく彼への感情と
彼の仕事への姿勢、哲学、信念、そういったものを
テレビ越しに見ているうちに気付いたことがある。

それは今までずっと
「自分らしさ」を探してきた私にとっては衝撃的なことで、
そして、それこそが彼が多くの人を魅了している
理由の1つのような気がする。


1.彼の持つしなやかな「自分」


彼のあの強気な発言の裏には
確かに「自分」という確固たる軸がある。

だからこそあそこまで強気な発言ができて、
そしてそれを裏付けるための努力や行動ができるのだと思う。

けど、きっとそれだけだったら、ここまで惹かれなかった。
別次元の存在として認識して終わりだ。


彼が他の人と違ったのは、
彼の持つ「自分」という軸がしなやかだったこと。

もちろんそれはある程度、信念として固まってはいるのだけれど、
決して凝り固まっているわけではなくて

どんなときも彼は「自分がどうしたいのか」という基準で、
選択をしていたように思う。


2.作り上げられた「ローランドらしさ」


接客、後輩への指導、独立、自分磨き。
どんなときでも「自分の想い」を尊重した選択を
それを何度も何度も繰り返していくことで

彼は「ローランド」というカテゴリを作り上げていった。

けれどそれは彼が作ったものではなく
私たち外の人間の中に、私たち自身が作り上げた
「彼らしさ」にすぎない。

初めは「ホスト」や「ナルシスと」と斜めから見ていたのに
あまりに彼がまっすぐで、ブレないものだから
ついには、そのまっすぐさに負け、
それを「彼らしさ」と、1つのカテゴリとして私たちは受け入れた。

人間とは勝手なもので、
1度受け入れてしまえばもうあとはそれを
ただひたすら賞賛し続ける生き物だ。

彼自身は、私が色眼鏡で見ていた頃と、何ひとつ変わってないのに。


3.「自分らしさ」という幻想

そうやって彼のまっすぐさに負け、
あっという間に手のひらを返した自分に
恥ずかしさを覚えながら思ったのは、

結局「自分らしさ」って幻想というか、
自分の中にはないもので、自分以外の誰かの中に
作り上げられていくもの
だということ。

私たちはよく「自分らしさ」を自分の中に求めて、
「どうありたいのか」など色々と考え込んでしまう。

けど、その答えは自分の中にはなくて、
たぶんそのままじゃ、一生、自分探しの旅をする羽目になる。

「自分らしくあろう」とか
いちいち意識する必要なんてなくて、

ローランドのように
自分がいいと思ったこと
自分が心惹かれることを、ただ選び続ければ

私たちは「自分」でいられる。

そしてそんな姿を他人が見て「自分らしさ」を作り上げる。

つまり「自分らしさ」という観点では
私たち自身はどうすることもできなくて、

だったら「自分らしさとは何か」なんて考えずに、
ただ単純に、自分の信じているもの、自分がしたいように、
すればいいんじゃないだろうか。


4.「俺か、俺以外か」という言葉

「俺か、俺以外か」

人間って本当に自分か、それ以外か、
究極その2種類しかいなくて

だからこそ、私たちはただ「私」であればいいんだと思う。

俺以外の存在を気にして、
それに振り回されるなんでアホらしくて、

どうせ自分以外をどうこうすることはできないんだから、
いっそのこと自分だけをみて、自分を徹底的に、磨いていけばいい。


そんな私を見てまた他人は「私らしい」なんて
カテゴライズするだろうけど

そんなことは、たぶん、どうだっていいんだ。

ローランドの言葉や生き方には
そんな想いが込められているような気がして
心の奥底で、本当は誰かにずっとそう言ってほしかった私たちは

だから、こんなに彼に惹かれるんじゃないだろうか。


「私か、私以外か」

なんだか長年悩んできたことが解決したような気がする。
私はただ「私」であれば、いいのだ。

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