「女性らしさ」というプレッシャー
■自分が「女性」であるという意識
自認の性別がハッキリしている人を羨ましいなと感じることがある。私は、女子校に通っていたのだが、みんな黒のランドセル、みんな同じ制服を着て育ち、中学、高校、大学も女子大に通った。そして、社会に出て初めて「女性らしさ」を求められて衝撃を受けた。
大学時代のインターンシップ先で「いつも男の子みたいな格好してるね」と言われて「仕事と服装は関係ないのでは……?」という疑問とともに、社会ではそういうジェンダー分けが求められることを知って驚いた。当時の私はセクハラの存在を知らず「な~に言ってんだこのオッサン?」くらいにしか思わなかったが、今考えたら完全なるアウト発言である。ただ、当時の私もやっぱり私なので、シロクマも凍りつく「は?」がこぼれ出たのであった。
就職活動をするのに買ったスーツは、パンツスーツ。友人に「絶対にスカートのほうが有利だよ」と言われて、意味がわからなかった。おそらく、友人は「“女”を使ってコトを有利に持っていけ」というアドバイスをしたつもりだったのだろうが、まず私にその発想がないので気づくはずもない。それに、私が何を身につけていようと、身につけていまいと、私は私でしかない。
それまでは「女の子だから重たい物は持たなくていい」とか「女の子だからお化粧しなくちゃいけない」とか、性別を起因として物事が動いていなかった生活だったのが、唐突に「男女」を意識せざるを得ない生活に放り出されて、実に混乱した。学級委員長も、部活の部長も、重たい机を動かすのも、全部自分たちでやってきたから、急にそんなことを意識しろと言われても無茶な話だ。
しかし、ほとんどの同級生はすんなり受け入れたように思う。というのも、日本にはサークル活動や合コンのような「女子大生である」ことに価値を見出されるイベントが、たくさん存在するからだ。私はアメリカで、さらに性差から保護された環境で過ごしたために「女性だから」とか「男性だから」なんて、そう差があるとは想像だにしなかったのだ。
■性別違和の感覚
「性別違和」とは、簡単に説明すると「決められた性別」と「本人が体験している性」がちがう状態のことを指す。たとえば、戸籍上は「女性」であるが、自分自身は女性であることに違和感がある、などの状態。性別に違和感を抱いているので「性別違和」という。
以前「新宿二丁目に行くときに気をつけたいこと #となりのLGBT 」という記事で少し触れた「性同一性障害」と、この「性別違和」は少しちがうものだ。性同一性障害は「生物学的な性別」とは「反対の性」だと感じることだ。たとえば、生物学的には男性だけど、自分自身は女性だと感じる、などの状態である。何がちがうかというと、性別違和状態にある人の感覚は「戸籍上は男性だが、男性ということに違和感を抱いている。だからといって女性になりたいかというと、それもちがう」といったもの。この場合、性別に違和感を抱いているものの、性同一性障害ではないといえる。
私個人としては、女性であることに違和感がないかといわわれれば、まったくないとはいえない。だからといって自分が男性であるとも思わない。女装している女性。普段の私は、自分の性別に意識がいかない。ただ、人間。だからこそ、ハッキリと「自分は男/女だ!」と思える人が、少し、羨ましい。
■性別は2つだけ?
大多数の人々が、男性または女性として生きている。だからこそ忘れがちなのが、性別というものは「男性でなければ女性」「女性でなければ男性」と、そう簡単に割り切れるものではない。身体のことについて言及すると、目で見てすぐにインターセックスとわかる子どもは2,000人にひとりの割合、日本では、大まかには1年間に600人弱のインターセックスの子どもが生まれている計算になる。(※Dr. Anne Fausto-Sterling 2000年調べ)もちろん、心の性別もさまざまだ。
おそらく、多くの人が幼いころから親世代に言って聞かされたであろう「あなたは女の子なんだから、いつかはお嫁に行くのよ」「女の子はライダーベルトで遊ばない」「男の子は青、女の子はピンク」などなど……。挙げはじめるとキリがないが、身体の性別を理由に「らしさ」を押しつける思想を、無意識に刷り込まれているのではないか? 前回も触れたように、誰かと同じ女性になる必要はないのに、なんとなくプレッシャーを感じていないだろうか。「“女性”という規範から外れてはいけない」と。
「性はグラデーション」とはよくいったもので、すべての性は地続きで、それぞれを完全に切り離すことはできない。だからこそ、さまざまな性の形を知ることで、自分の人生も豊かになるのだ。
■根底にうっすらと存在する怒り
少し話は変わるが、先日、友人にこのコラムについて相談したときに「読んでいて、自分がシスヘテ(※)であることに罪悪感を抱いた」と言われた。おそらく、LGBT以外の人を「理解のない思考停止人間」と断罪するような表現があったからだ。
※詳しくは第2回、第3回に記してあるが、シスヘテとは「シスジェンダー・ヘテロセクシャル」の略。シスジェンダーとは心の性と身体の性が一致している状態にある人を指す。ヘテロセクシャルとは、異性愛者を指す。
私は、釈明するためにいろいろと考えあぐねたことを吐露した。しかし、話しているうちに自分の中にうっすらと「常に否定され続けてきた」という怒りが存在することに気がついた。生まれつき、異性だけを好きになるように生まれていたら、どれだけ楽だっただろう。性別に違和感を持たなかったら、どうなっていただろう。法的に認められる結婚ができて、性交渉をすれば自然と妊娠できる。いちいち親に説明する必要もないし、なんで私ばっかり……。
とどのつまり、私はシスヘテを羨ましく思って、ずっと妬んでいたのだ。ピンクでヒラヒラの洋服が好きな女の子で、髪の毛もゆるふわクルクルが好きで、大学を卒業したら就職して、そのうち異性と結婚して自然に妊娠出産して、子育てして…… 私はそうはなれない。
もちろん、誰の生活の中でも苦しみがたくさんあるのは知っている。外側からどんな風に見えていたとしても、内情など誰にもわからない。他人の苦しみを100%理解することは、おそらく不可能なのだ。だからこそ私は、知識こそが鍵だと思っている。知識を身につけることで、他人の苦しみを想像することが可能になるからだ。想像力は、人をさまざまな事象への理解につなげる糧になりうる。
同友人に「さまざまなセクシャリティを知るきっかけが私にあったのは、幼いころからあなたを知っていたから。私にはいいきっかけがあったけど、きっかけがない人が無知であることは罪にはならないよ」と言われたときに、心底溜飲が下がる思いがした。そもそも、このコラムのオファーを請けたのも、知るきっかけのない人々の機会になれたら、という想いがあったからだ。完全に理解ができずとも、知識があれば「そんな人も存在するんだな」と受け入れることはできる。
人それぞれの「生きづらさ」に寄り添うには、さまざまな性の在り方を知ることが必要だ。なぜなら、すべての性は地続きで、それぞれを完全に切り離すことはできない。だからこそ、さまざまな性の形を知ることで、自分の人生も豊かになるのだ。
>>次回「性的に消費される対象に生まれることの持つ意味」
<参考・引用文献>
性別違和とは? 性同一性障害となにが違うの?? | ここらぼ心理相談