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社会科は(  )教科!

1.社会科への偏見
"社会科は暗記教科"
生徒たちは当たり前のようにこう答えます。
というか、多くの大人もそう思っていると思います。

冗談じゃない!
教科に暗記教科も考える教科もないですよ。
そもそも、暗記って手段であって目的じゃないでしょ?
こんなレッテル貼りをするから、地理も歴史もつまらなくなるんです。

それに、覚える手段だとしてもなぜ暗記?どうして暗く記憶しないといけないのか?大切な何かを考えたり判断したりするために、必要な知識を増やすことは、ヒトの欲求の1つ。いわゆる知識欲です。なのに、社会科は丸暗記することが正しい学習だと思い込まれている。

食事だって、味わうこともなく、ただ義務感だけで詰め込むだけなら、食欲どころか苦痛でしかありませんよ。栄養やカロリーを摂取するためだけなら、点滴やサプリで生活すればいい。でも、そういう合理主義では語れないところに食事の本質があるはずです。それを大切だと思っているから、調理する人も手間ひまかけて調理するし、食文化というものも生まれてくるわけですよね。

学びも同じです。特に社会科は、今や未来を豊かに生きるために必要な糧を得る教科。学ぶたびに喜びが増える教科のはずです。美味しく食べる、幸せを感じながら食べるのと同じで、欲求を満たす生活の基本となるものでしょう。なのに、わざわざ"暗記教科"という、美味しくもない、幸せも感じない教科へと貶められているのは、残念でなりません。

2.合理主義を捨てよう
"合理的"であることは一見良いことです。ムダを省いて効率化することですから。でも、ムダかどうかを決めることは簡単じゃない。目先の損得だけを基準にしてムダを決めていくと、最終的に生きること自体もムダになります。人はどうせ死ぬんですから。

でも、世の中そう単純ではない。というか、ムダと思えるものに価値を与えることで人の世界は成り立っています。だから、極端な合理主義とは、ヒトがサルに戻る行為なのではないでしょうか?せっかく与えた価値をムダ認定して捨てるわけですからね。しかも、その価値に気付こうともせずに。

話を戻しましょう。社会科は、Aという事象の原因にBという答えがあって、それを覚える教科ではありません。それどころか、"Aの原因はB"という単純化したものを暗記することで、偏見が増えるだけです。

例えば、"タバコを吸うと肺がんになる"という思い込みは、人々の思考をストップさせます。"喫煙者が大幅に減った今でも肺がんの患者数が減っていない"というデータがあるのに、人々は、タバコは肺がんの原因だと信じているのです。喫煙と肺がんに相関関係はないのに、相関がある前提で話を進めると…。科学的なものを信じていると言いながら、データよりも思い込みに縛られることの怖さですね。

そうならないために、私たちは、過去の人たちの営みや他の国々との違いを学ぶのです。歴史も地理も、すべては今の私たちに、考えるためのたくさんの要素を与えてくれるものなのです。そう思ったら、社会科で学ぶことって、感動だらけですよ。心が揺すぶられない方がおかしいくらいです。

3.社会科は( )教科
最初の質問に戻りましょう。私の答えは"社会科は感動教科!"。心が動くほど、思考が豊かになっていく、素晴らしい科目です。

でも、考える要素が増えることは、豊かになることでもあり、一方で悩みが増えることでもあります。知らないからこそ、悩まずにいれる面もありますから。

単純に敵だと思っていたら迷わず攻撃できる相手でも、相手の事情や置かれている立場を知ると、迷いが出て攻められなくなるとか。合理主義で考えると、後退したように見えますが、そういういろんな要素に迷いながら、良い世界を作っていけることの方が、ヒトとしては前進しているのです。

歴史に登場する人物が、なぜそのような判断をし行動したのか。一面的でなく、その背景やその人の気持ちを推し量ることこそ歴史を学ぶ本質だと思います。その答えは1つにならないけれど、客観的な史料やデータからそれをイメージしていくことで、見えてくるものがあります。そこに感動や示唆があるんですね。

地理にしても、なぜその場所でそれが起こっているのかを推し量ることで、自国との違いや共通点を知ることができます。国に限らず、だれかとうまくやっていこうとする時、相手の事情や価値観を知っていること、知ろうとすることから始まるもの。客観性を持ちながら、相手への思いを馳せるという、心の動きが必要なのです。

4.社会科の学び方
社会科とは社会、つまり人々の営みについて学ぶ教科です。その点では、地理も日本史も世界史も公民科目も同じ。一見、現実から遠そうに見える倫理もです。すべての社会科科目は繋がっているのです。しかし、そう感じられるのは、社会科が暗記教科だという呪縛から解き放たれ、感動科目として学べるようになってこそです。

私は、高校の日本史を教えています。受験対策ももちろんしますが、その際でも、"試験に出るから暗記して"という言い方は絶対にしません。感動できなくなりますからね。

授業を受けながら、一人一人の生徒の中で、"嬉しい!切ない!誇らしい!腹立たしい!すごい!"というたくさんの感情が沸き上がってくるのが、正常な学びだと思うのです。

ある日の休み時間。日本史の授業を受けている生徒たちが、日常会話の中で、"今、高橋是清が財務大臣だったら、コロナ禍でもなんとかしてくれそうだよね"と話しているのを聞いて、嬉しい気持ちになりました。一般的には変な女子高生たちだとは思いますが。

少なくとも、画一化されたプロパガンダで政権批判だけして、意識高い系になった気でいる活動家みたいな人たち的じゃなくて良かったです。それこそ20年くらい前までは、そういう人を育てる教育が正しいと思われてましたからね。

5.社会科受験対策
とはいえ、”感動しながらどんなに豊かな思考力を身につけたとしても、試験で点数を取れないと困るんですけど…。"という声があるのもわかります。そのために多くの用語を覚えておく必要があるのも事実。では、やっぱり"暗記"に頼らないといけないのでしょうか。

答えはNOです。暗記しようとするから、脳は拒絶するんです。深刻なものを脳は忘れようとします。"大切なもの≒必要なもの≒心がポジティブになるもの"というのがインプットの原則です。好きなことは、無意識の中でも進んでいくってことですね。

好きなことは、脳が常時アンテナをはり、情報を集め、整理し、思考し続けてくれます。これが自然な状態です。つまり、"覚えたいこと≒必要なものor大切なもの"というポジションに置いておけば、暗記の何倍も記憶に残っていきます。しかも、それが知識で終わらず、"観念"になる。そうなれば、時間が経っても本質部分がしっかりと残っているので、全部忘れたということがなくなるんです。

では、具体的にどうすればいいのでしょう。

私は生徒たちに、思い出を作るように言います。学んだ内容、覚えたい内容について、語りましょうと。その時、"この人はこうだからすごい!"とか、"今〇〇できるのは、この事件があったからだ!"とか、もっと単純に"この人、〇〇だから好き!"とかでもいい。自分の心の中の感情と一緒に覚えるのです。

これって、思い出づくりでしょう。昔のことで記憶に鮮明に残っていることを思い出と言います。しかもそこには、"楽しかったな"とか、"苦労したけど頑張ったよな"とか、"あの子のこと好きだったな、今どうしてるかな"といった感情もくっついている。

しかも、時間が経って細部は忘れてしまったとしても、自分にとって大切な所はデフォルメされて、本質部分が強調されて保存されているのです。そして、あるきっかけがあれば、いつでも蘇る位置にあって、そういう記憶が今の自分を作っていたりします。

そのように学ぶことが社会科の受験勉強としても最も有効だと思います。

6.まとめ
社会科を学ぶことは、感動することと思い出を作ることです。そうすることで、たくさんの考える糧、幸福な社会を作るための糧を手に入れられます。

実際の授業内容や、学び方の工夫については、次回以降に書いていきたいと思いますので、興味が湧いた方はぜひご覧になって下さい!





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