守破離、秩序と無秩序のあいだ、表と裏。
先日、「生命は秩序と無秩序のあいだにある」ということを綴りました。
「秩序と無秩序のあいだ」は、空間的・静的に捉えるのではなく、時間的・動的に捉えてゆくことが大切なように思います。秩序をつくり、環境変化に応じて築いた秩序を壊していく。その円環、繰り返しの連続、螺旋的な発展によって生命は自らの存在を維持している。こうした円環構造は「守破離」の精神にも通じているように思います。
「守破離」は何かしらの「型」を学び、その型を熟知する(守る)。型とは構造であり、構造には中心軸となる思想や目的、あるいは「前提としている状況」が存在しています。
ということは、状況が変われば「型」が合わなくなる(通用しない)わけですが、そこで状況を型に当てはめるのではなく、型を状況を乗り越えるのに適した新たな型へと変えてゆく(破る)必要が出てくる。そして、新たな型・構造へと移行する(離れる)ことで状況を乗り越えてゆく。
「守破離」もまた「秩序と無秩序のあいだ」と重なり合っているように思えてくるわけですが、では「どうすればこの守破離の円環がつながってゆくのだろう」、あるいは「円環のつながりを妨げるものは何だろう」という問いが浮かんでくるわけです。
哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言葉からヒントを得ると、「見えている物事だけを見ず、見えないものを見ることが大切なのではないか」と思うのです。あるいは、語られていることだけが全てではない、むしろ語られていることを通して「語られていないこと」が浮かび上がってくる。
たとえば、図形に「補助線を引く」ことで一気に視界が開けてゆくように、見えないことを見えるようにすることで、「見えているもの」という枠から離れてゆけるように思います。
問題は眺め方によって簡単にもなれば難しくもなるわけですが、実際に人と人の関係における悩み、あるいは自分自身の悩みは直接的には目に見えず、捉えどころのない「心」や「価値観」といったものに根ざしている。
ひとたび根元が切り崩されれば、ドミノが倒れるように、色々なものが連鎖して、あとは流れに任せれば状況が好転していく。
見えていないこと、語られていないことに思い巡らす。合わせ鏡のような「表と裏」を自由自在に行き来する「察する」感覚を誰しもが持っている。
その感覚を開くためにはどうすればよいのだろう、あるいは感覚を閉ざしているものは何だろう。そのような問いが思い浮かんでくるのです。
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