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「自分がしてもらったように他の人にしなさい」

今日は『ソーシャル物理学 - 「良いアイデアはいかに広がるか」の新しい科学』(著:アレックス・ペントランド)より「やり取りがあっても支配と対立が発生する理由」を読みました。

人は「互いにつながりあった存在」であり、社会的ネットワークの中で周囲との相互作用によって価値観や行動を変化、調整しながら生きている。ソーシャルネットワーク・インセンティブは(他者を支援したり罰を与えたり)人々のつながり方に影響を与え、社会的圧力に基づいて人の行動や価値観を変容させていくものです。

そして、繰り返される協調的交流をエンゲージメントと呼び、エンゲージメントはやがてその集団の「文化」を形成するのでした。その意味で、社会の構造は極めて重要です。

アダム・スミスは、モノやアイデア、贈り物の交換や、助け合いを通じて生まれる社会構造が、コミュニティの利益となる問題解決をもたらす方向へ資本主義を導くと主張した。私も同じ意見だ。コミュニティは社会的な絆からできており、そこから生まれる社会的圧力がなければ、資本主義は弱肉強食の世界になってしまう。社会物理学は私たちに、経済的なやり取りだけでなく情報やアイデアの交換、そして社会規範の形成を考慮に入れなければ人間の行動を十分に説明できないことを教えてくれる。

かの有名な経済学者であるアダム・スミスですが、『道徳感情論』において「共感」の重要性を説いています。共感があるからこそ、市場メカニズムは個人的な合理性もとで行われる交換・取引が、結果的に社会全体での最適を実現、コミュニティの利益となる問題解決をもたらすと考えています。

共感は他者を支援する原動力となり、単なるモノやサービスとお金の交換に留まらず、意識してないかもしれませんが、情報やアイデア、感情までもが交換されています。

私たちの「フレンズ・アンド・ファミリー」研究では、エンゲージメントによって信頼感が醸成されることが明らかになったが、それと先ほどのような集団間の暴力の存在は矛盾しないのだろうか?研究で扱ったコミュニティや社会集団では、行われるやり取りの大部分が協力的なものだった。しかしやり取りの大部分が搾取的なものである場合は、それが発生する度に、信頼感が失われることになる。他のコミュニティの人とやり取りする度に騙されていれば、そのコミュニティにいる人々全員を信頼しなくなるだろう。

相互に交流がないコミュニティ同士では対立、衝突が発生しやすいことが明らかになっています。やり取りの大部分が搾取的なものである場合は、それが発生する度に信頼感が失われるとありますが、「搾取されている」と感じないうちに搾取されている可能性には注意が必要かもしれません。

「他のコミュニティの人とやり取りする度に騙されていれば、そのコミュニティにいる人々全員を信頼しなくなるだろう。」とも著者は述べていますが、騙し・騙されている感覚がなければ、向かうところの帰結は望ましくなくとも、その過程においては双方が互いを信頼しあっている状況が生まれます。

信頼とは将来の協力的な行動に対する期待であり、過去のやり取りに基づいたものであるだけに、人々は私が「逆黄金律」と呼ぶルールに従って行動しているように見える。それは「自分がしてもらったように他の人にしなさい」というものだ。これは信頼ゲーム(古典的な「囚人のジレンマ」問題など)でしばしば見られる「報復戦略」に似ているが、現在では一般的な、デフォルトの戦略となっている。

信頼とは何でしょうか。相手を信じること。任せること。相手の何を信じるのか、と問われれば、相手が自分の想像どおりに思考し、行動するだろうと期待すること。

「自分がしてもらったように他の人にしなさい」というのは、そこにソーシャルネットワーク内における「模倣」であることに他なりません。その動きがネットワーク内で連鎖的に伝播することで、全体の価値観や行動が変容していく。

なるほど。たしかに恩はめぐっていくのだ、と。

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