生命と冗長性の意味
書籍『生命はデジタルででてきいる 情報から見た新しい生命像』を読み進めていると、生命の誕生、そして進化の果てに現在の自分が存在しているのだと、あらためて気付かされる。
「進化の果て」と書いたけれど、そこには変化の結果が世代を超えて引き継がれていく何かしらの仕組みが必要不可欠。それこそがあらゆる生物に共通する「セントラルドグマ」という仕組みであり、DNAというデジタルデータからタンパク質という物質を作り出す設計図。
物質を情報化し、情報を物質化する。その連鎖が生命の進化を下支えしている。物質には質量があり、大きさがあるからそのまま引き継いでいくのは、効率が良くないのかもしれない。物質を情報化して、データとして保存するというのは、質量も大きさも限りなくゼロに近づけていくのと等価であり、効率が良いからこそ、生命の歴史の中で等しく「セントラルドグマ」が採用され続けているのだろう。
変化こそが生物の本質である。生物には寿命がある。生まれてから、いつかはその死を迎える。その過程では、自らを取り巻く環境があり、たえず変化する環境との相互作用の中で自らがその環境に適応していかなければ生命を維持することはできない。
環境が大きく変わらなければ自らに課される変化も微少であろうし、環境が大きく変わるのならば自らに課される変化は大きなものとなるに違いない。そして、全ての個体が一様に変化していては、全体としては脆弱になってしまうかもしれない。種の存続という文脈では、一様な変化ではなくランダム性を取り入れて、それぞれの個体が少しずつ違う変化をするからこそ、先の読めない環境の変化のもとで種としての生存確率が高まっていく。多様性は必然なのかもしれない。
情報を分散させないこと。遺伝というメカニズムの中で、それまで蓄積された進化の結果を伝えていくためには一つにまとまっていることが望ましい。分散させてしまったら、それらを拾い集めなければならないわけだけれど、部分的に欠損してしまうと不完全にしか次代に引き継ぐことができなくなってしまう。
「セントラルドグマ」という生命の設計図、フォーマットがあるからこそ、多様な物質構成をDNAというデジタルデータに圧縮して、効率的に遺伝していくことができる。生命情報を遺伝していく仕組みとしてのセントラルドグマがあるとしたら、たとえば人間社会における伝統を次代に引き継いでいくための「セントラルドグマ」のようなものは考えられないだろうか。文化も人間社会の中で発展してきたものであり、社会を彩っている。変わらないために変わり続けていくことで文化も保存されていくものなのかもしれない。
「無駄とわかっていても、分裂のたびにすべてのDNAを複製するしかない」
冗長性が大切である。そのようなことを思った。端的に伝えれば良いというものでもない。必要最低限のものだけ残せば良いというものでもない。冗長であるからこそ、多少のエラー、ノイズが入ったとしても前後関係からそのエラー、ノイズの影響を抑えることができる。
大切な何かを必死に伝えたい時、端的に伝えることが良いこともある。一方、どのように言葉にすればよいのか、伝えたらよいのか分からないこともある。何とか言葉を紡ぎ出していくと、その結果として伝える言葉は冗長になってしまうかもしれない。でも、その冗長さの中にこそ大切な何かがあるのかもしれない。
セントラルドグマ、DNA。生命はデジタルでできていることを学びながら、現実社会における冗長性の意味について考えてみたくなった。
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