Makoto Nakamura
なんとなく思ったことをエッセイ的に書いています。
私が日々感じたことや出会った出来事などを書いています。
今まで考えたけど色々な事情で発表できていない企画を色々アップしたいと思います。あとはシナリオや短いお話など思いついたものをあげていきたいと思います。
共に暮らす犬たちとのことなどを書いています。
この歳になり、たまに若い人に自分の考えを教えさせていただく(教えるなんて偉そうで言えない)機会がちょこちょことある。 最初から少し違和感があって、何度か繰り返すうちに確信に変わったことがあるので書き残しておこうと思う。 そう、自分も若い頃に思っていた。 「そんなことを聞きたいんじゃないんだよ」 ってやつだ。 さっきも書いたけど、若い頃自分も先生とかが話すことを聞きながらそう思っていた。「そんなことを聞きたいわけじゃないんだ、今の世の中ってそんなもんじゃないんだよ」と。
タイトル通り、厄年はもう終わっているはずなのだ。 なのに、まず、アップルウォッチが壊れた。 視界の左端の方で何かがプラプラしているので虫でもいるのか?と見るとアップルウォッチのディスプレイ部分が剥がれていたのだ。 剥がれて本体からぶら下がっている状態だったのに通電はしていてディスプレイは表示されているのが何だか奇妙だった。 調べてみたら私のアップルウォッチはseries4というものでだいぶ昔のものだ。2018年発売なので6年使っていた。 一番最初のアップルウォッチを買った
銭湯に行って靴をしまう時。 空いているロッカーを探す時。 ふとデジタル時計を見た時。 サウナ室の12分計の長針が何の数字を指すか。 数字を気にすること、ありませんか? わたしは、あります。 「足して10になるロッカー番号にするか」 とか 「やべ、4:44分だ!44秒になった1秒間、目を逸らしていよう」 とか。 これ、何となくの自分ルールなわけです。 別に足して10になろうが4:44分を見ようが何が起こるわけでもないわけで。 子供の頃やった、走る車のナンバープレートの
右へ行くことがなければ左へ行くことが出来ないのと同じように下に行ったことがなければ上にも行けない。 日陰に居たことがなければ日向の意味もわからない。 世の中は逆の概念みたいなもので成り立っている。 もちろん、その両極の間はグラデーションのようになっているわけだけど。 この両極は相対的なものだ。だけど、その中に身を置くものとしては自分の立ち位置は絶対で、日陰にいたらそれはもう日陰でしかない。圧倒的に日陰だ。 面倒なのは、身を置く自分としては立ち位置は絶対なので、逆に相対的に
ギターを弾いたりする。 やり切れないことがあるとジャカジャカと鳴らす。 それで考えた。 ポップスの大元を辿るとブルーズになるという話。 ブルーズってなんだい?という質問にざっくり答えを書くと、アメリカに連れてこられた黒人たちがギターを弾き気分を歌ったもの。さらにその元は何かの作業(単純作業は大変なものですいつの時代も)の時に歌った歌とかだったりするらしい。 日本でも田植え唄とかありますね。 祭りの時とかに歌う「なんとか節」みたいなものも、日頃の大変な日常の憂さを祭りにかこつけ
ふと、思ったことがある。 最近、「フォロワーが何人いる」とか「バズった」とかよく話題になる。 仕事でも「公式アカウントをどこまで伸ばしたいです」など議題になったりする。 こんなこと言っちゃなんだけど、「だから何なの?」と思ってしまう。 それでふと思い出したものが、子供時代の漫画に描かれていた内容だ。 ・コンピュータでデータ解析をしている学校と対決して、追い込まれていくが、最後はデータで解析できない力を少しずつ発揮して勝つ ・「私の戦闘力は〇〇です」みたいな強い敵キャラと戦
むかし、ある現場で私が書いた脚本の収録の際、役者の方に「この台詞、日本語として間違いですが、意図を教えてください」と言われたことがある。 続けて、「意図に納得出来なかったら正しい日本語にしたい」と。 もちろんその台詞はわざとキャラクターを立てるために間違えた日本語を使ったのだが、役者さんにそのあと言われた言葉に衝撃を受けた。 「間違えた日本語を話したら私が間違えた言葉を使っていると思われます」 私はそう言う意味で軽く日本語を書いていたのかもしれない、と思った。 そのあと
短い話を書いてみたくなり、昨夜から三つ書いてみました。 文字数的にはこの三本でテレビアニメ一話分くらいでしょうかね。 出版されてる短編集くらいのボリュームになると、このくらいの話の長さだとかなり入れないとかもしれません。あ、でも岩波文庫とかの薄いやつなら十本くらいでいいのかな。 いや、別に出版するわけでもないので意味のない計算ですけど。 長いこと新作の準備をしているのですが、スムーズに世の中に出せないのもありますし、どうしても物作りしている人種はこうやって何かをたまに吐き出
六月の終わりからずっと仕事に没頭されていて、まとまった文章を書く気力?がありませんでした。何しろ、五年前から準備していた仕事です。気合も入ろうと言うものです。五年前から準備を始めて、四年前くらいにどん底に落ちて、それからこの仕事と共に少しずつ、前を向くことが出来ました。それには出会うことのできた素晴らしい才能と、物語自身の持っている力と、素敵な人たちがいたからとも思います。 まだまだ仕事は始まったばかりです。少しずつですが、前を向いて歩いて行こうと思います。
ここの記事でもいくつか書いたが、去年の5月くらいからずっと調子が悪く、色々な検査やらなんやらしたのですが、最終的に整骨院に通うようになり、週に一度か二度、骨の矯正をしてもらいつつ、自分でできることは何か聞いてみるととにかく歩くことです、とのことだったので、もう半年以上、毎日10kmを目安に歩いている。 食事もどうせならちゃんとしたものを食べようと思い、気をつけて自炊などもしたりしつつ、(しかし酒はやめられないのだった)運動をしていたら、14kg体重が落ちました。 世
斉藤和義さんの「かすみ草」という曲がある。とてもいい歌で大好きである。妻もこの歌が好きで、一緒にカラオケに行くと、「かすみ草歌ってよ」と私にリクエストするのだ。 かすみ草はたまに聴いたりするが、多分妻が居なくなってしまった今、わたしはもうカラオケでこの歌を歌うことはないだろう。
以前書いたこの記事のオーディオドラマですが、爆発的というわけではありませんが、地道に聞いていただけているみたいで、嬉しい限りです。 中でも業界関係の方が聞いてくれていたりして、感想をくれたりするのも嬉しい。私は職業としてプロデューサーや演出や脚本などをやっていますが、このオーディオドラマは職業として、というより純粋に何かを作りたいという気持ちから作った、いわば同人です。 30年近くキャリアがありますが、そういう気持ちで作った作品はあまりないですし、この先もそうそう作れない
久しぶりにオーディオドラマを作りました。オーディオドラマというのは、ラジオドラマとか、ドラマCDとか、そう言った音だけで構成されているドラマのことです。セリフと、効果音と、音楽だけ。もちろん、映像はありません。でも、だからこそ想像力をかき立てられるメディアなんじゃないかなあと私は常々思っていたりします。 普段は比較的大柄なものを作っているのですが、たまにその作業の中から溢れてしまったものなどが、形をとって作品になることがあります。長編小説を書いていたら使いきれなかったモチー
仕事を終えてサウナに入り、バスを待っていた。数人がバスを待っており、私の前に老婆がいた。何となくわかっていただけると嬉しいのだが、その老婆は手助けしたいと思えるようなタイプではなく、どっちかというと関わりたくない感じのオーラを発していた。毒リンゴを食べさせちゃうタイプの老婆だ。 バスが来て、老婆がバスに乗り込んだ。硬貨を入れて中に進もうとしたときに運転手が言った。「ちょっと、これお金じゃないよ」。私も前に間違って五百円によく似た外国の硬貨を入れてしまったことがあり、みた
まあ、四月くらいからあちこち調子が悪かった。最初は胃がおかしくなった。五月六月、苦しんだ。横になると気持ちが悪い。コーヒーを飲んだら立っていられないくらい気持ち悪くなった時もあった。内科にも二箇所くらい行ったが、「胃が荒れているのでは?」とのことで胃潰瘍の薬をもらって飲んでいた。 薬を飲むと良くなるのだが、薬がなくなるとまた胃の調子が悪くなる。その繰り返しだった。食事をとるのが怖くなり、四キロほど体重が落ちた。 七月に意を決して胃カメラを飲んだ。ピロリ菌も調べた。結果、
ここのところちょこちょこと描いている絵コンテのメモです。普通は縦型の紙に秒数、台詞とかとともに描いていくのですが、僕の場合は最初はこんなメモ書きで進めていきます。 頭の中でずっとこねくり回しているものを一度こういう形で外に出してみるのです。人形アニメーションの場合、セッティングでアングルが多少変わってくることはありますので、あくまでもこれは僕自身のメモみたいなものです。とは言え、絵コンテはやはり重要で、これを無しにいきなり撮影できるというのは難しいことだと思います。