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もし今日、なにか苦しいことを感受したら、それをどう対処したらいいのか、っていう話です。

これは自分の考えなんだけど。。。世界にはなぜ苦しいことがあるのだろう、という謎を解明するために聖書が書かれたんじゃないかなー、と思っている。

今日の聖書の言葉。

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
コリントの信徒への手紙一 10:13 新共同訳

生きているともちろん、楽しいこと、心地よいこと、幸せと思えることが、たくさんあるわけだけど。。。

でも、苦しいことが起きた途端、そいつがブラックホールみたいにすべてをかっさらって、気分を真っ暗にしてしまうのだ。

その真っ暗な気分のなかでは、自分は自分を守らなければならない、という意識になる。そうでないと生き残れないもんね。

そして、その意識のフィルターを通して、世界は自分に対する「悪意」を持つものとして感受されることになるんだ。

問題は、世界には悪意だけではない。どう考えても「善意」としか思えない要素が、たくさんある、っていうことだよね。

善意と悪意が織り交ざった世界。ほんと、謎だ。。。

そういう状態でも円滑に生きて行くために、謎に満ちたこの世界をどのように解釈するか、というココロの営みが生まれて来たんだろうなー、と思う。

それが「世界観」だ。

いま、ネットを通じて、ありとあらゆるタイプの世界観を手に取って品定めできるわけなんだけど。。。

そのおかげで、みんなが自分のハートにフィットする世界観を自由に選ぶことができるようになっている。

それだけじゃない。ノベルやハイファンタジーやアニメや映画という形で新しい世界観が次々と紡ぎ出されている。それはものすごい量だ!

なので、ひとりのひとが、ひとつだけ世界観を選んで生きる、という方式はもう古くて、三つも四つも、いや、もっとたくさんの世界観を同時に採用して、その時の気分で世界観をスイッチして生きる、という生き方が出現している。

たくさんの世界観を目の前にすると、ちょっとめまいがするけれど。。。めまいがするのは、自分が古い世代ということの証しでもあるんだけど。。。

でもね、よくよく考えると、どの世界観にしても、最終的には「善意」が優位になって終わることを志向しているんじゃないかなー、って思う。

自分が見た限りでは、悪意から始まって、悪意を経過して、最後も悪意でもって終わる、っていう世界観は、H.P.ラヴクラフトの『クゥトルフ神話』ぐらいじゃないのかなー。。。

これに対して、ほとんどすべての世界観では、世界の悪意は何らかのプロセスで対処されて、最終的には善意の優位で終わる、っていうポジティブな未来を志向しているように思うんだ(諸説あります)

もちろん、個々の具体的な悪がどう対処されて善の優位に結果するかについては、それぞれの世界観が、それぞれの方法を言うわけだけど。。。

でも、基本的な認識としては同じだと思う。どういうふうになるかは当座はわからないとしても、この悪は必ず善の優位という結末に至る、っていうことを、すべての世界観を横断して、みんなが信じているのだ。

そういう世界観のフレームの中では、悪はもはや単なる悪ではない。新しい呼び名が与えられることになる。それが「試練」だ。

試練の意味は、苦難に遭うことによってわれわれのキャラクターが練り鍛えられて、結果として「善意」がわれわれのうちに実現する、っていうことだと思う。

世界は善意でもって始まった。その世界のなかに何らかの理由で悪意が散見される。けれど、われわれは悪意を試練として受け止めることによって、最終的には善意に転換することができる。。。

上記のことを、ながーいコトバで説明しようとしたのが「聖書」で、そして、その聖書のキモの部分がイエスの十字架と復活なんじゃないかと思う。

宇宙のすべての悪意が一点に凝縮されて、その瞬間、宇宙のすべてに善意がバーストした。それが十字架と復活だ。自分はそう信じている。

そして、もし今日、何か苦しいことを感受することがあるとしても、それを上記の線に沿って「試練」として受け止めようと思うんだ。

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