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絶対の絶対の絶対に忘れてはいけないことを、もし忘れてしまったら。。。という話です。

どうも最近、本当に自分でも心配になるぐらいに物忘れが激しい。認知症を患うには早いとは思うけれど。まだ56歳だし。でも若年性っていうのもあるからねー。あるいは知らない間にコロナの無症状感染をしてて、その後遺症による記憶障害? とかいろいろ考えるんだけれど、まあ、自分の人生はこれからどんどん加速度的に老いに向かって行くわけだし、それはついに死に至るわけだし、しかし、墓の向こうではキリストに結ばれた復活の栄光が待っているわけだから、つまり、ブランドニューの新しい身体を自分は最終的にゲットできるという期待があるので、現状これでいいか、って思ってしまう。。。

今日の聖書の言葉。

あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
申命記 6:5 新共同訳

しかし、たくさん忘れることがあるとしても、絶対に忘れてはいけないこと、ってあるよね。今日の聖書の言葉は、まさに「絶対に忘れてはいけないこと」のひとつだ。ひとつ、というか、絶対の絶対に忘れてはいけない唯一のことかもしれない。ほかの全部を忘れたとしても、このひとつだけ覚えていればいい、みたいな。。。

今日の聖書の言葉の直前には「聞け」という神の呼びかけの言葉が記されていて、それはヘブライ語の原文でシェマーとなっている。シェマー!とは、耳で聞け、というだけでなく、あなたの生き方・あなたの全存在をもって従え、という意味だ。単に聞いただけなら右から左を通り抜けて記憶に残らないことがあるわけだけど、シェマー!と言われたら、そういうわけにはいかない。人生を全部コミットして全身全霊全力でやれ、っていうレベルの要求になる。そこで何が要求されているか、というと、これだ。

心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして
あなたの神、主を愛しなさい

シェマー!という呼びかけで始まる上記の言葉を絶対に忘れないために、続きの箇所では、それをいつも口ずさめ、と命じられている。どれぐらいの頻度で口ずさむのかと言うと、朝、起きたら唱える。リビングのソファに座っている時も唱える。道を歩くときも唱える。夜ベッドに横になる時も唱える。唱えるだけじゃあない。上記の言葉を小さな羊皮紙に書き写して小箱に入れ、それを額と手にひもでゆわえ付け、さらに、家の入口のドアの柱に取り付けろ、とまで言われている。

今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
申命記 6:6-9 新共同訳

実際にイスラエル・ユダヤ人はテフィリンという小箱を額と手にひもで結び、ドアの柱にはメズーサーという細長い箱を取り付けて、シェマー!が命じている言葉を絶対の絶対の絶対に忘れないようにしている。そこまでやるか、っていう感じもするんだけれど、それは裏返せば、人間はどんな大切なことも簡単に忘れ去ってしまう弱い存在だ、ということなのかもしれないね。だって一度聞いたら決して忘れない、って言うんだったら、ここまでやる必要はないわけだから。。。

悲しいことにイスラエル・ユダヤ人は、この絶対の絶対の絶対に忘れてはいけないことを忘れて行ってしまう。その結果、大厄災を招いて聖都エルサレムと神殿は灰燼に帰し、住民たちは異国バビロンに捕囚されてしまうのだ。旧約聖書にはその悲劇のストーリーが克明に記録されている。その悲劇をレガシーとして受け継いでいるクリスチャンたちは、じゃあ失敗を繰り返さないか、って言うと、決してそんなことはないわけであって。。。べつにクリスチャンがユダヤ人より記憶力が良いということは無い。ぜんぜんない。やっぱり忘れやすいのだ。だから、絶対の絶対の絶対に忘れてはいけないことを簡単に忘れてしまう。このため、でもクリ、だめクリ、という自己卑下用語すらあるわけで。。。

絶対の絶対の絶対に忘れてはいけないことを、もし忘れてしまったら、その結果、あのイスラエル・ユダヤ人が経験したバビロン捕囚を上回る大厄災に見舞われてもしょうがないと思うんだけど。。。でも、その点については、恵み深い神は悲劇を超えて行く新しいストーリーを全人類に用意してくれた。神は、全宇宙の全経過時間おける全厄災の全部を残らずゴルゴダの十字架の上で神の独り子イエスに注ぎ尽くした。それが新約聖書が提示する新しいストーリーだ。つまり大厄災のすべては、すでに、すべてイエスが飲み干していて、あとは一滴も残っていない、ということになる。

なので、あっ、自分、大切なことを忘れていた! と自覚したときには、イエスの十字架を見上げ、そこにココロをフォーカスすることになる。イエスの犠牲によって提供されている恵みと赦しを受け取るためだ。絶対の絶対の絶対に忘れてはいけないことを忘れてしまうたびに、あるいは、小さくて細かくてほとんど重要ではないようなことを忘れてしまうたびに、つまりは、どんなことでも忘れてしまったことを自覚するたびに、自分はイエスの十字架を仰ぎ見て、口ずさむのだ、この祈りを。

主イエス・キリスト、神の子、救い主
罪人つみびとであるわたしを、あわれんでください

この祈りを、繰り返し、繰り返し、唱える。朝、起きたら唱える。リビングのソファに座っている時も唱える。道を歩くときも唱える。夜ベッドに横になる時も唱える。今日も唱えた。明日も唱えるだろう。その次の日も、そのまた次の日も。そして老いていき、ついに死を通り、復活の栄光に到達するまで、ずっと、ずっと、唱えるだろう。たとえもし、すべてのことを忘れてしまうようなことがあるとしても、どうか、この祈りだけは忘れずに唱え続けることが出来ますように。。。

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