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黄金比、黄金律、黄金のハート。。。
ゴールデンルール・黄金律・黄金比とか呼ばれるものがあるよね。
この顔のパーツの配置、美しいなぁ、と、だれもが感じる黄金比とか。。。
他者を自分のように思いやることが大事だよ、っていう黄金律とか。。。
なんで黄金、ゴールデンか、っていうと、時代や文化を超えて、普遍的に「最高!」とされているから、ってことなんだろうと思う。
今日の聖書の言葉。
律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
ガラテヤの信徒への手紙 5:14 新共同訳
隣人を自分のように愛しなさい、っていう黄金律は、人類の魂のなかに深く刻印されているんじゃないのかなー。
だから、溺れているひとを見ると、自分の危険をかえりみず、とっさに飛び込む、みたいな、利他的な行動をしてしまうんじゃないだろうか。
それって、だれかに命じられたからするのではなく、いてもたってもいられない、そうせざるを得ない内発的な力に動かされて、してしまうんだ。
その内発的な力は。。。ドーキンスなら利他的な遺伝子、って言うんだろうけど。。。
自分はクリスチャンなので、やっぱり、スピリチュアルな、というか、霊や魂のなかに、神の指でもって深く刻印された「愛の律法」が存在しているにちがいない、と信じている。
まあ、こればっかりは、目に見えるものではないので、存在を証明することはできないけれど。。。
でも、地域や時代や文化や宗教を超えて、他者のために命を捨てた多くの人が実在することを考えると、そうさせる何か。。。「愛の律法」。。。が存在することは、間接的には証明されているんじゃないかと思う。
万人の魂のなかに刻印された「愛の律法」についての証拠聖句が、これ。
たとえ律法(モーセの律法)を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
ローマの信徒への手紙 2:14-15 新共同訳
さて、問題なのは、じゃあ、われわれはその内発的な力。。。魂に刻印された「愛の律法」が命じるところに従って、いつも誠実に行動しているか、って言うと、けっしてそんなことは、ないわけであって。。。
意識せず、とっさに利他的な行動に走ることもあれば、残念なことに、損得を考えて保身に回り、何もしないで逃げることも、ある。。。
そんなときは、自分でも、わかるんだ。。。自分は愛から逃げた、ってことが。。。
なんで、わかるか、というと、魂の内奥で「良心」がうずくから。。。
彼らの良心もこれを証ししており
また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って
同じことを示しています
つまり、われわれの魂には「愛の律法」が刻印されているだけでなく、愛に異反したときに自分で自分を罪に定める機能まで、組み込まれている、ってことになる。
だれからも責められるわけではないんだよね。。。
自分ひとりだけが、わかるんだ。。。自分が自分を責めている、という事実を。
それは、つらく、かなしく、不幸だ。
この不幸からわわれわれを救うために発動されるのが、やっぱり、同じ黄金律、愛の律法なんだ。
神のひとり子であるイエスは、その命を捨てることによって、全人類に完全な罪のゆるしをあたえてくれた。
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
ヨハネによる福音書 15:13 新共同訳
そして、イエスは、よみがえった。
よみがえったイエスは、聖霊をとおして、いま、われわれのなかに生きている。
こうして、ダブル体制が整った。
それは、われわれのなかに刻印されている「愛の律法」と、われわれのなかに臨在する「愛の動力」であるイエス・キリストという二重の機構だ。
きょう・いま・この瞬間、イエスがわれわれを占有するパーセンテージが高ければ高いほど、「愛の律法」✕「愛の動力」=「愛の瞬発力」が高まっていく。。。
理論的には、そうなるはず、なんだよね。
そのために、全聖霊の呼吸で集中しよう。。。
イエスよ、わたしのすべてとなってください、って。
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