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小説を超えるリアルを超えるXXX

このところ Apple Watch のワークアウトを使って、ウォーキングを日課にしている。ランニングは無理だから、あくまで、歩くだけ。きのうは 4.7km を1時間6分かけて歩き、消費カロリー 245kcal で、平均ペースは 1キロあたり 13分49秒、平均の心拍数は 80-116、地図上の歩いたコースまで、ぜーんぶ記録してくれる。

ウォーキングのコースの途中に書店があって、立ち寄るんだけど、小説のコーナーで、いろんな作家の本を立ち読みするのが好き。でも、ウォーキングが続くので、いつも、買わない。。。スミマセン。。。

小説って、理解不能な他者の内面に入り込んで、世界がどう見えて、どう感じられて、どんな衝動にかられるかを、バーチャルで体験できるから、ほんとうに不思議だ。しかも、内面に入り込むんだけど、どこまでいっても他者は他者だから、やっぱり、究極的には「理解できない」。。。でも、世界には、理解できないものが満ちている、という感覚、あぜん、ぼうぜん、とさせる感覚が、シビレル。。。

今日の聖書の言葉。

目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。
コリントの信徒への手紙一 16:13 新共同訳

日常生活で出会う他者は、やっぱり、理解できないことが、おおい。。。というか、他者と出会う機会が、コロナ禍で制限されているから、理解できない他者との出会に対して、憧憬を感じるけれど。。。

でも、実際、理解できない他者と出会ってしまったら、戸惑い、狼狽し、悩むしかないよね。。。

理解不能な他者については、心をシャットダウンするしかない、とまで、思ってしまう。小説みたいに、自分が他者の内面に入り込むわけにはいかないし、自分のボキャブラリーと作法と浅知恵で、どう出たところで、ぜんぜん心が通じる気がしない。。。だから、目をつぶる。つぶってしまう。。。

しかし、今日の聖書は「目を覚ませ!」と言うんだよね。まーだ、あきらめるな、と。

小説家は、架空の他者の内面に、想像力を使って入り込む。でも、それは、リアルではないよね。。。リアルは小説を超える。

その小説を超えたリアルな他者の内面に、今日もがっつり入り込んで、仕事をしている、お隠れになった・知られざる・おもてに決して出て来ない存在が、いるのだ。

それが、聖霊だ。

聖霊は、あらゆる人間の内面に入って、そのひとの体験も情動も思考も、つまり、人生を全部いっしょにしている、しかも、そうしていることを、だれにもサトラレていないという、スゴイ存在だ *。

御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。
ローマ人への手紙 8:26-17 口語訳

聖霊は、他者の内面に入って、その存在の核にふれている。

だから、自分は今日、他者の気持ちも生き方も、ぜんぜん理解できないとしても、「祈り」をつうじて、他者にふれることが可能なんだ。

なぜなら、「祈り」は、聖霊のはたらきだから。

聖霊は、自分の内面にいて、同じ聖霊が、他者の内面にいるから。自分と他者のあいだに断絶の深淵があるとしても、自分と他者は、同じ聖霊で結ばれている。聖霊は、ただおひとりだから。

こうして「祈り」は、結び目である聖霊をとおして、世界に波紋を及ぼすことができるんだ。

でも、それは、祈りによって、他者を支配する、というようなことでは、ぜんぜんない。

だって、聖霊は、ジェントルマンだから。。。聖霊は、ひとの意思をどこまでも尊重し、待ちつづけている。けっして、無理強いしない。力やタクラミで支配したりしない。やさしいお方。

それと真逆なのが、悪霊だ。悪霊は、わたしたちを誘惑し、罪を犯させることによって、罪悪感を植え付け、わたしたちを失望と絶望で囲い込み、絶望感の中で、意思を奪取し、支配してくる。そこで感じられるトーンは、恐れ、不安、暗闇の感覚だ。

でも、聖霊のはたらきは、いつも自由だ。聖霊は、わたしたちが、自分の意思で、自分を聖霊にゆだねるのを、忍耐深く待ち続けている。どれぐらい忍耐深いかというと、内面のすべての苦悩を引き受けて、いっしょに「うめく」ほど、忍耐深い。。。そして、ついに時がきて、わたしたちが、自分を聖霊にゆだねる決心ができたら、聖霊は、わたしたちに赦し、解放、希望、平安、よろこび、すがすがしさ、生きる勇気を経験させてくれる。

その勇気とは、あきらめないで、他者と向き合って、生きて行こう、理解できない他者を、あるがままに受け止めて、どうにか折り合いをつけながら、いっしょに生きて行こう、と思えるようになる勇気だ。

目を覚ましていなさい。
信仰に基づいてしっかり立ちなさい。
雄々しく強く生きなさい。 

註)
* 未信者(キリストを神とは信じていない人)にも働く「聖霊の恵み」を、ジョン・ウェスレーは「先行的恩恵」(Prevenient Grace)と呼んだ。また、カルヴァンは『キリスト教綱要』第2編2:15-16 で「異教徒に与えられる聖霊の賜物」について述べている。

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