#977 インスタントにスカイウォーカーに改名する、っていう話です。
きのう自転車で15分ほどの距離をこいだら、もうモモがパンパンになってしまって、日ごろの運動不足を痛感したんだけれど。。。
そこに来て、この言葉だもんねー。フフッ、ってなってしまう。
今日の聖書の言葉。
走っても弱ることがなく、歩いても疲れないのであれば。。。
世界のすべてのアスリートはクリスチャンになるしかないよね。。。
てか、世界のクリスチャンはみーんなアスリートになれるよね。。。
でも、実際にはイエスを信じていたって、走れば息が上がるし、歩けば疲れる。
ってことは、聖書の言葉が間違っているのか?
あるいは、もっと超越的な次元のハナシをしているのか?
そりゃあね、超越的な次元に決まっているんだろうけど。。。
だって、これだからね。
鷲のように翼を張って上る
自分はイエスを信じているけれど、だからと言って、通勤するときに軽々と空を飛べるわけではない。
ってことは、これはハナから超越的な次元のことを言っているのだ。
とすれば、走るとか歩くうんぬんも超越的な次元のハナシってことになるよねー。あくまで個人の見解です。諸説あります。
運動不足の身体に地球の重力をひしひしと感じるこの瞬間にも、そういう日常を突き抜ける超越的な言葉を聖書は繰り出して来る。
たとえば、これなんか最高じゃん?
考えてみれば、聖書っていうのは平凡な日常に対して超越・超越・超越って畳みかけるように迫ってくる感じがするよね。
だってさ、自分は死んでないのに、オマエはすでに死んでいる、って言って来たり *¹。。。
自分は復活していないのに、オマエはすでに復活している、って言って来たり *²。。。
そいでもって、自分は地上にいるのに、オマエはすでに天上で王座に着いている、って言って来たり *³。。。
それらはどれも自分の現状に合致しないから、途方にくれるのは当然だ。
なので「自分の現実」を左手に「神の現実」を右手に、うやうやしくささげもつようにして、さあ、どうしたものか、と思ってしまう。
しかし聖書は、いつも・つねに・たえず「神の現実」を信仰によって選び取れ、って求めて来るんだよね。
こういうふうに。
「神の現実」は自分の現実を超越しているわけだから、そりゃあ、いま見ようとしても見えない、っていうのは当然だよね。
見えるものは超越していない、ってことだから、そこに信仰は必要ない。
超越しているものは見えない、ってわけだからこそ、信仰が必要なんだ。
というわけで。。。
勇気をふるって信じようとしてみる。
自分はまだ死んでないけど、すでに死んでいる、っていうことを。。。
自分はまだ復活してないけど、すでに復活している、っていうことを。。。
自分はまだ地上にいるけど、すでに天上で王座に着いている、っていうことを。。。
そうして、現実には山も谷もあるけれど、気分だけはスカイウォーカーになったつもりで生きてみようとするんだ。
さて、電車に乗るか。。。
註)
*1. Cf. コロサイ 3:3
*2. Cf. コロサイ 3:1
*3. Cf. エフェソ 2:6
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