見出し画像

小一時間反省し、そして、奇跡を信じる。

コロナ禍でストレスを溜めながら、ひたすら耐える日々。

けど、やっぱり我慢の限界がある。

だから、ほんとうにささいなことで感情が爆発してしまうことが。。。

限界水位いっぱいのダムにピキッとクラックが入ってドーンッて決壊してしまう感じ。

こうなっちゃうと、自分で自分の感情をコントロールしようにも、制御不能だ。

今日の聖書の言葉。

無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。
エフェソの信徒への手紙 4:31 新共同訳

ひとしきり爆発が終わると、あとに残るのは燃え尽きた感情の焼け野原。。。

そこに、ぽつんと取り残された自分。心は塞ぐ。

ついさっきまで、あんなにエネルギッシュに怒っていたのに、今は絶望的な無力さしか感じない。悲しみと共に滑稽ですらある。結論は、ダメだなあ、自分。。。

小一時間、反省して来よう。。。

~~~ 60分後 ~~~

。。。反省して来ました。

さて、気を取り直して。

最後の晩餐のところで、聖書はこう言っているよね。

イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
ヨハネによる福音書 13:3 新改訳2017

父なる神は万物をイエスの手に委ねた。

つまり「万物を支配する力」が、イエスに与えられた、ということ。

これって、現代人にはなかなかそのまま受け取れない衝撃的な宣言だ。

でも、自分はクリスチャンなので、むしろ、あー、だからなのか! イエスが水をブドウ酒に変え、嵐をしずめ、病気を癒し、悪霊を追い出し、死者を生き返らせ、わずかなパンで何千人もの空腹を満たせたのは、「万物を支配する力」を持ってたからなんだ! と納得してしまう。

イエス自身「万物を支配する力」を持っていることを自覚してたらしく、こう言ってる。

わたしは天と地の一切の権能(エクスーシア)を授かっている。
マタイによる福音書 28:18 新共同訳

もし自分にも「万物を支配する力」が与えられていたら、何に使うだろう?

自分を怒らせるような気に入らない相手や状況を、ぜーんぶ自分の意に沿うように変えてしまうために、その力を使ってしまうんじゃないか。てか、絶対そうするし。

でも、イエスは「万物を支配する力」を、弟子たちの足を洗うために使った、というんだ。

イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
ヨハネによる福音書 13:3-5 新改訳2017

イエスは「万物を支配する力」を、敵を倒し、服従させ、言うことをきかせるためには使わないで、他者に奉仕するために使った 。しかも、師であるイエスが弟子の前にひざまずく「しもべ」のかたちで、汚れた足を洗ったという *¹ 。。。

これは、これで衝撃的だ。

それよりもっと衝撃的なのは、その「万物を支配する力」が、どうもイエスから弟子たちに対して委ねられているらしい、ということなんだ。

イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能(エクスーシア)をお授けになった。
マタイによる福音書 10:1 新共同訳

イエスを神の子・救い主と告白する者を、イエスはすべて「弟子」として扱ってくれる。

だから、上記の聖句を拡大解釈することによって、イエスは「権能」つまり「万物を支配する力」を、この自分にも授けてくれている。。。なぜなら、自分はイエスを神の子・救い主と信じているから。。。と考えることも可能なんだ。これは、ほんと、信じがたいことだけど。。。

じゃあ、その「万物を支配する力」が、いま・もう・すでに自分に委ねられている、という前提で考えてみた場合、いったい自分は、どうすべきなのか?

「万物を支配する力」をイエスから委ねられている自分は、イエスの模範にならって、その力を、他者に奉仕するために使わなきゃならない。

そのためには「しもべ」のようになって、っていうか、ほんとうに「しもべ」になって、相手の前にひざまづいて、文字通りの意味でも精神的な意味でも、相手の足を洗わなきゃいけないんだ。

それと同時に。。。

「万物を支配する力」をイエスから委ねられている自分は、イエスの模範にならって、その力を、自分の内側に対して行使しなきゃならない。

どういうことかというと。。。

● 荒れ狂い波立つ自分の感情に向かって「静まれ、黙れ」と命じること。

● 死者のように横たわる自分の感情に向かって「起きて、床を取り上げて、歩け」と命じること。

● 自分のうちに巣食う悪霊のように邪まな欲望に対して「出て行け、去れ」と命じること。

● 無力さで途方に暮れる自分に向かって「パンを食べて、満たされよ、満腹になれ」と命じること。

● 味気のない生活に飽き飽きしている自分に向かって「水よ、ブドウ酒に変われ、その芳醇な香りと美味を心ゆくまで味わえ」と命じること。

そりゃ「万物を支配する力」だからね。信じて使えば、奇跡も起きるに違いない。だから、期待もし、信じもしてみよう *²。

註)
*1. 実際、最後の晩餐のあと、ゲッセマネの園での捕縛、ピラトの官邸での尋問、十字架による処刑という一連の出来事のなかで、イエスは「万物を支配する力」を使って敵を倒そうと思えばできたはずなのに(Cf. マタイ26:53) あえてしなかった。
*2. ここで注意しなければならないのは、「万物を支配する力」の使い方の位相だ。外に対しては他者に奉仕し、内に対しては自分の感情と欲動を制御する、という使い方を「A」としたら、その位相を逆転させた「B」の場合、自分の感情と欲望に対して奉仕するために、「万物を支配する力」を使って他者を屈服させ利用する、という結果になってしまう。AもBもそこに働く力は本質において同じはずなのに、位相が逆転しただけで、天国と地獄、神と悪魔、キリストと反キリストぐらいの違いが発生してしまう。このように異なる位相Aと位相Bの衝突がイエスの荒野の40日の誘惑の意味なのかもしれない(Cf. マタイ4:1-11)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?