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たとえ明日、世界が終わるとしても、わたしは今日、リンゴの木を植えよう、っていう話です。

人生は、いろんなものにたとえられるよね。

人生は
「航海」と考えることもできるし。。。
「巡礼の旅」という見方もあるだろうし。。。
「実を結ぶ木」という捉え方もあると思う。。。

今日の聖書の言葉。

これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
ガラテヤの信徒への手紙 5:22-23 新共同訳

「航海」だとするならば。。。

小さな船で母港を出て、海図と羅針盤を頼りに、目指す港へと向かう。べたなぎの日もあれば、嵐にもまれて沈みそうになる日、暗礁に乗り上げそうになる日もあるよね。。。どうか「静けき港」に安着できるようにと、航行の安全を祈る(コクリコ坂から)

「巡礼の旅」だとするならば。。。

俗世を後にして、でも、俗世の生き方を全部ひきずっていて、だから、しょってるバックパックにいろんなアイテムをありったけ詰め込んで、なので、ピレネーにさしかかると重たくってとてもじゃないけど歩けないので、バッグの中身をぜーんぶ路肩にぶちまけて、身軽になってスキップして行く、大聖堂を目指して(サン・ジャックへの道)

「実を結ぶ木」だとするならば。。。

たとえ明日、世界が終わるとしても、わたしは今日、リンゴの木を植えよう(マルチン・ルター)でも、ちょっと待ったー! 人生の後半にさしかかって、それでもまだ木を植える、っていう段階でいいんだろうか? ある程度の時間が経過しているわけだから、自分という「木」にどんな味の実が結んでいるのか、実際に食べて試してみる必要があるんじゃないかと思う。

問題は、木はおのれに結んだ実を自ら食べることができるか? っていうことだよね。もし自分で自分の実を食べる木があったら、それって、お化けの木じゃないの、って思っちゃう。実を食べるのはそれを結んだ木以外のすべての他者だと思うんだ。

人生が「航海」だとするならば、静けき港に安着すればゴールだ。人生が「巡礼の旅」だとするならば、サンチャゴデコンポステラに到着すれば大団円だ。じゃあ、人生が「実を結ぶ木」だったら? だとしたら、自分以外のだれかに実を食べてもらって、げーっ、苦くて食べられたもんじゃない、って言われるか、うっとりするほど美味しい、もう一個食べたい、って言われるか、うーん、まあ、そこそこだね、って言われるか、答えが分かれることになる。。。

霊の結ぶ実は愛であり
喜び、平和、寛容、親切、善意
誠実、 柔和、節制です

イエスにおける「神」が聖霊をとおしてこの自分のなかに結ばせてくれる実。それが、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制だ、ということになるんだけれど。。。でも、ほんとうにそういう実を結んでいるの? ってことについては、自分じゃあ判断できない。他者に判断してもらうしかないよね。

今日も自分は他者と会うことになる。。。いったい他者にどんなテイストを味あわせることになるのやら。。。もしダメ出しを受けたとしたら、悔い改めて、ルターみたいに言うしかないよね。たとえ明日、世界が終わるとしても、わたしは今日、リンゴの木を植えよう。。。

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