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誰にでも気前よく寛大に与えながら、絶対に散財しない、なんてことが可能か、っていう話です。

人生のなかで、握りしめようとすると手からすり抜けて行ってしまうものがある。

逆に、手放してしまうと倍になって戻ってくるものもある。

ほんと、いろいろ不思議なことがあるよねー。

今日の聖書の言葉。

散らしてなお、加えられる人もあり
締めすぎて欠乏する者もある。
箴言 11:24 新共同訳

今日の聖書の言葉は「散らしても加えられる」って言ってるけど、これって、あらゆるひとのあらゆる状況にあてはまるもんだろうか、って思ってしまう。

っていうのは、聖書の中には散財して身上を潰したひとも出て来るからねー。

たとえば、放蕩息子のたとえ話に出て来る「弟」なんかは、父親から譲り受けた財産を湯水のように使い果たして一文無しになってしまう *。

友だちに気に入られたくて毎日ご馳走やプレゼントを奢っているうちにスッカラカンになってしまったんだ。

そうなったとたん、友だちは蜘蛛の子を散らすように消えてしまった。。。

こんなふうに散財して自滅するひとがいるわけだから、「散らしても加えられる」っていう今日の聖書の言葉は、全宇宙の全人類に全面的に適合するわけには行かないと思う。

だからと言って、じゃあ、何でもケチってガメつく蓄財すればいいのか、っていうと、そういうことでもないんだよね。

だって、別のところで聖書は、この地上で蓄えた財産はぜーんぶ朽ちて消えて、天国には1円たりとも持って行けない、って言ってるわけだから **。

そりゃそうだよね。お葬式で棺桶に六文銭を入れる風習があるけれど、実際には火葬場で溶けて無くなってしまうわけだから、文字通りビタ一文あの世に持って行けない。。。

じゃあ、天国に持って行けるものって、なんだろう?

自分のキャラクターっていうのは、天国に持って行ける唯一のものなんじゃないかと思う。

なぜなら、キャラクターとは人間の霊魂の属性であるから。で、霊魂が永遠に不滅であると仮定すれば、霊魂の属性であるキャラクターも不滅である、っていうことになるよね?

だから、ケチでガメたキャラクターで人生を終えたら、それをそっくりそのままあの世に持って引っ越すことになるんだろうし、逆に、広い心で気前よく誰にでもあたえる寛大なキャラクターで人生を終えたら、それをそっくりそのまま持って行くんだろうなあと思う。諸説あります。

結局、バランスってことになるのかな。。。

この地上では、出来る限り広い心で気前よく誰にでもあたえる寛大な人間としてふるまいたいと思うけれど、でも、散財して自滅するような結果にはなりたくない。

まあ、でも、イエスが語った放蕩息子のストーリーでは、散財して自滅した「弟」は心から悔い改めて、お父さんのもとに帰るんだよね。

そしたらなんとお父さんは、放蕩息子を完全かつ無条件にゆるして、そればかりか、上等の着物を着せてくれて、金の指輪をはめてくれて、食べきれないほどのご馳走でもって歓待してくれた。

息子は言った。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」  しかし、父親はしもべたちに言った。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」 そして、祝宴を始めた。
ルカによる福音書 15:21-24 新共同訳

なんだよ、お父さん。。。全財産を息子に譲ったわけじゃなかったんじゃん。。。まだまだいろいろいっぱい持ってるみたいだし。。。

このお父さんというのは「神」のことを指しているわけだけど(by イエス)

ってことは、広い心で誰にでも気前よくあたえる寛大なキャラクターでありながらも絶対に散財しない、っていう絶妙なバランスの頂点がここあったかー、って思ってしまう。

それはつまりお父さんであり「神」であるっていうことだ。

註)
* Cf. ルカ 15:11-32
** Cf. マタイ 6:19-21

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