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心が痛くて、しょうもないとき。。。

自分はクリスチャンのはずなのに、心根がとんでもなく悪い、という思いに打ちひしがれて、望みを失いそうになることが、たまにある。。。まあ、軽い鬱かもしれないけど。。。

今日の聖書の言葉。

もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。
歴代誌下 7:14 新共同訳

「神の名をもって呼ばれている神の民」

ありがたいことに、これは、自分のことだ。イエスを信じ、イエスに結ばれ、イエスを通して神の所有とされて、神の民として生きている。そのことを、心から感謝しよう。

「悪の道を捨てて立ち帰る」

心に根深く巣食っている悪。それが、おもてに出てきて、直面させられる時、しなければならないのは、絶望することではない。悪を捨て、神に立ち帰ることだ。。。帰ろう、待っていてくださる方のもとへ、いま、帰ろう。

「神の顔を求める」

悪を捨てて立ち帰ろうとするとき、じゃあ、どっちに向き直ればいいの? 永遠で無限で絶対者で隔絶している神は、わたしたちがじかに触れてコンタクトを取れるよう、イエス・キリストを「神の顔」として設けてくださった。もろい肉体と精神をもって生きるわたしたちに、寄り添えるように、イエスは肉体と精神を持つ、ひととなられた神として、一緒にいてくれる。だから、イエスに向き直ろう。

「ひざまずいて祈る」

イエスに向き直るときの姿勢、それは、悔い改めの姿勢だ。悪を認識し、その悪を嫌い、悪に対して自分は無力であることをみとめ、悪を捨ててイエスにゆだね、イエスの十字架と復活の力によって、対処していただく。そのことを心から願う身体は、自然に「ひざまずく」姿勢になる。それは、自力で戦って、もがいて、苦しむことを、まったく中止して、神に降伏し、全身全霊をイエスの手を通して神に明け渡すことを、象徴する姿勢だ。

わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、
彼らの大地をいやす。

ひざまずいて、イエスにゆだねる。。。それは、虫歯が痛くて、歯医者に行き、観念して、歯科室の椅子に身を横たえるようなものだ。自分の手にペンチを握り、麻酔もかけずに、自力で虫歯を抜くことなど、できやしないのだから。。。虫歯を抜くことは、歯医者しかできない。悪に対処することは、神にしかできないのだ。


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