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宿命、運命、予定、星の巡り、サヨウナラ。っていう話です。

人間は、自分ではどうにもできない巨大な力に支配されていて、そこから逃れるすべは無い、っていう考え方がある。

宿命、運命、予定、星の巡り、とかだよね。

こういう考え方は、世界で繰り返し起きる大厄災の圧倒的な力に対して、人間が徹底的な無力感を経験することによって、長い年月をかけて形作られてきたんだろうなー、と思う。

自分の境遇や環境や体調ばかりか、感情や思考や意志までも、圧倒的な力によって支配されているのであれば。。。

そりゃ、もう、あきらめて、宿命でも運命でも予定でも星の巡りでも、受け容れるしかないよね。

だって、それは、そうなるように決まっているんだから、どうしようもない。。。

なーんてことを考えながら、Smart NewsとLINEに表示される今日の天秤座の運勢が目に入ったんだけど。。。

前者は「努力が報われる日」で、後者は「パッとしない日」だって。。。

オレの運命、どっちやねん(笑)

今日の聖書の言葉。

従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
ローマの信徒への手紙 8:1 新共同訳

果たして人間は、宿命や運命や予定や星の巡りを打ち破って、自由になることができるんだろうか?

まさにそのことをテーマにしているのが新約聖書なんじゃないのかなー、って自分は思っている。

宿命や運命や予定や星の巡りをチャラにする方法なんて、あるんだろうか、って思っちゃうわけなんだけど、それを可能にする仕組みを新約聖書は提示してくれている。

こういうロジックだ。

すべてのものごとを決定している「神」は、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけのワラの上に赤ん坊となって降り立つことによって、すべての被造物を神に結び合わせた。それがイエスだ。

で、イエスにおける「神」は、十字架にかかって死ぬことによって、すべての被造物も死んだものと見なし、かつ、三日目に復活することによって、すべての被造物も復活したものと見なした。

なぜ、そんなことが可能かと言うと、神はすべての被造物をイエスのなかに数え入れることにしたから、ってことになるんだけれど。。。

つまり、神がそのように欲し、神がそのように行動し、神がそのように見なし、神がそのように宣言したから、そうなる、ということになる。

今日を生きている自分は、自分ではどうにもできない圧倒的な力によって支配されているわけだけど。。。

でも、そういう自分を「神」はイエスのなかに数え入れて、イエスが死んだから自分も死んだものと見なし、イエスが復活したら自分も復活したものと見なしてくれる。

その「見なし」はどれぐらい有効かと言うと、この自分が欲しさえすれば、何度でも、何度でも、そのように見なしてもらえるのだ。証拠聖句がこれ。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
コリントの信徒への手紙二 5:17 新共同訳

いま、自分は、イエスの名を呼んで、祈る。

主イエス・キリスト、神の子、救い主
罪人つみびとであるわたしを、あわれんでください!

そして、こう考える。いま、イエスに結ばれた自分は、イエスと共に死んで、イエスと共によみがえった!

そう考えるたびごとに、宿命からも、運命からも、予定からも、星の巡りからも解放されて、自分は自由になる。何度でも、何度でも、自由になるんだ。アーメン、ハレルヤ、感謝します!

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