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太陽みたいに、なりたいのか、なりたくないのか、自分でもよくわからない、けれど、憧れはする。。。

月末でほんとうに財布にお金がなくなって来ると、最少の支出で最大のカロリーを賄うにはどうしたらいいかを考える、というか、考えざるを得ない。

で、このところ昼食用に便利に使わせてもらっているのが、ヤマザキの大きなメンチカツパン。

その名の通りパンの中にメンチカツが入っているんだけど、税込み価格120円で総熱量が671キロカロリーという最高のパフォーマンスだ。

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120円で、おにぎり3.7個分、ハンバーガー2.6個分の熱量だよ!

これよりパフォーマンスが良いものと言ったら、もうね、じかに油を舐めるぐらいかも(笑)

今日の聖書の言葉。

天の果てを出で立ち 天の果てを目指して行く。 その熱から隠れうるものはない。
詩編 19:7 新共同訳

人間が生きる熱量のみなもと。それは、太陽だ。

太陽はソーラーシステムの中心にある天然の核融合炉として、何十億年にもわたってエネルギーを安定的に供給し続けている。

ときどき弱まることもあるけど。。。

そうすると大氷河期がドーンと訪れて、緯度の高い地域は数千メートルの氷に覆われちゃったりもする。。。

まあ、いまのところは安定しているみたい。

太陽からふりそそぐ熱エネルギーは植物たちの光合成によって炭水化物に転換され、草食動物がそれを食べて筋肉に転換され、肉食動物がそれを食べ。。。

。。。というふうに、太陽のエネルギーが食物連鎖を通じて生命活動の原動力となって行く。

人間は植物の化石(石油・石炭)からエネルギーを取り出して便利に使っているけれど、それも大元をたどれば太陽から来てるんだよね。

ありがとう太陽。。。

だから、古代人が太陽を神としてあがめまつったとしても、全然不思議ではないんだけれど。。。

ところが、どういうわけか聖書は太陽に対して非常に冷たい扱いをしているんだよね。

その冷たさが顕著に出ているのが創世記における天地創造の記事だ。

小学校の理科レベルの知識でも「???」となってしまう。だって、神はまず植物を作り、それから太陽を作った、と言うんだからさ。

神は創世記 1:11 で植物を創造し、そのあと 1:14 で太陽を創造している。

えーっ、それって、普通、順番、逆でしょ? って思っちゃう。

でも、おそらく創世記の記者は、周辺の古代人たちがみーんな太陽を神としてあがめていることを十分認識したうえで、あえて暴挙というか冒険をして、植物→太陽という順に書いたんだろうなあ、と思う。

つまり、その意図は、太陽を冷遇することにあったのではないだろうか。「太陽? それ、神ではないです」って。。。

しかし、じゃあ、聖書のはじめからおわりまで太陽は冷遇されっぱなしかと言うと、けしてそんなことはない。

神の恩恵があまねくすべての存在にふりそそがれることを象徴するものとして、太陽が挙げられているんだ。今日の聖書の言葉なんて、まさにそれだと思う。

その熱から隠れうるものはない

太陽の熱は、相手の属性に応じて変わったりすることはない。

だれでも、どんなひとでも、どういう人格で、どういう行いをしていようとも、同じように太陽が昇り、同じように太陽が沈み、同じだけの量のエネルギーが注がれる。

父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ
正しい者にも正しくない者にも
雨を降らせてくださるからである

そういう太陽は、神の普遍的な恩恵にとっても似ていると思う。

神の祝福・好意・愛は、人間の側の属性によってオンになったりオフになったり、強まったり弱まったり、ということは「ない」のだ。

神の恩恵が、そういう太陽に似ていて、普遍性こそ神の品性の特徴であるとするならば。。。

そして、その神がつかわしたイエス・キリスト(義の太陽!)を通して救われた人間は、人間であるにもかかわらず神に似た品性を持つように変えられ始めると言うのであれば。。。

それはつまり、人間もまた、ある意味、太陽みたいな存在になり得る、ということを意味しているんじゃないだろうか。

あなたがたの天の父が完全であられるように
あなたがたも完全な者となりなさい

理念的に言えば、会う人、会う人、だれに対しても、同じ熱量で接し続ける、というような普遍性を持つ人間。。。

いやあ。。。そんなひとがいたら、ちょっと暑苦しいよなあ、と思うかもしれないけれど。。。

でも、われわれが、そういう太陽みたな存在に、ほんとうに、なれるんだろうか? つきあう相手の選り好みばかりしているような、われわれが。。。

しかし、証拠聖句は、こう言っている。

正しい人々はその父の国で太陽のように輝く

これについては、もちろん、文字どおり太陽みたいにピカピカ輝く状態になるんだ、という解釈もあるかもしれないんだけど。。。

自分的には、やっぱり、太陽みたいな恩恵の普遍性を体現する人間になれる、という話なんじゃないかと思う。

会う人、会う人、誰に対しても、同じ祝福・好意・愛をもって接して行く人間。。。うーん。。。でも、何度考えても。。。やっぱり暑苦しいだろうな。。。

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註)
*1.  Cf. マタイ 5:45
*2.  Cf. マタイ 13:48
*3.  Cf. マタイ 13:43

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