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魔の2歳児になれますか? っていう話です。

イエスが語った言葉については、いろんな聖書学者が、いろんな解釈や注釈をしているわけなんだけど。。。

そのおかげで、イエスの言葉がはっきり輪郭を取った感じになる。

でも、なかには、考えても考えても、いまひとつしっくり来ないものもあるんだよね。。。

たとえば、今日の聖書の言葉なんか、まさにそうなんじゃないかと思う。

今日の聖書の言葉。

はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
マタイによる福音書 18:3 新共同訳

子どものようにならなければ天国に絶対入れない、っていうイエスの言葉。

これって、かなーり強烈だよね。だって、その条件を満たさないと、オマエ、天国に絶対に入れないよ、って言うんだからさ。。。

でも、じゃあ「子どものようになる」って、具体的にどういうことなのよ? って思ってしまう。

そりゃまあ、大方のひとはこのイエスの言葉を受けて、純真無垢な幼子を思い浮かべるんだろうけど。。。

でも、子育てを経験したひとに言わせれば、魔の2歳児という言い方があるぐらいキビシイものがあるわけで。。。

で、魔の2歳児が終わったら、すぐ魔の3歳児、さらに魔の4歳児と続いていって。。。

5歳児になっても安心はできないよね。だって5歳児の中間反抗期というのが待ち構えているわけだから。。。

そうなると、イエスが「子どものようになる」っていう言葉で指向したかった「子ども」って、いったい何歳の子どもなのよ? っていうギモンになる。

まあ、もちろん、天国に行ったときイエスに会って、この質問を直接投げかければいいんだろうけど。。。

でも、子どものようにならなければ天国に入れない、って言うんだから、もしかして、もしかしたら、イエスに質問する機会は永遠に自分に訪れない可能性だってあるわけで。。。

だから、このギモンは地上で生きているあいだに解決しておかなければならないよね。

ここから先は、自分の想像なんだけど。。。

イエスが、まさか理想化された「子ども」の姿しか考えてない、ってことは、ないだろうなー、と思うんだ。

だって、聖書の主張によれば、万物の創造主がひとの形をとって降臨したのがイエスなわけだから *。

だから、イエスはすべての子どもの現実の姿を、だれよりもよーく知っていたに違いないんだ。神だからね。。。

だとしたら、当然イエスは、あの魔の2歳児、魔の3歳児、魔の4歳児、そして、中間反抗期を迎えた5歳児のリアルな姿を知っていたはずなんだ。。。

そういう理解をふまえた上でイエスが「子どものようになる」ってことを言っているのだとしたら。。。

だとしたら、びちーっと閉じられていた天国の門が、少しだけ、自分に向かって開かれたような気になる。

ママに向かって、さんざん、わめいて、けちらして、いやいやしていた幼子が、けろっと泣き止んで、ママ抱っこ、って言って、抱っこしてもらえるのが当然であることを微塵も疑わないように。。。

そのように、この自分も、神に向かって、さんざん、わめいて、けちらして、いやいやして、でも、けろっと回心して、イエスの十字架と復活の恵みにより自分は赦されたってことを微塵も疑わない。。。

そんな魔の2歳児みたいに自分はなれるだろうか。。。

いや。。。だめだよね。。。

「微塵も疑わない」ってとこが幼子の幼子たるゆえんなんだから、自分はまだまだ大人を脱色し切れていないんだろう。

註)
*  Cf. ヘブライ 1:1-4

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