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渋柿が甘くなるように、自分も甘くなることができるだろうか。。。それは、今日の決意にかかっている、という話です。

高円寺の実家の庭には立派な柿の木があった。秋の今頃になると家族総出で収穫をした。渋柿だったので、そのままでは食べることが出来ない。このため、新聞紙を敷いた木箱の中に柿を並べて、上から焼酎を吹きかけ、冷暗所で保管した。数週間たつと熟成して、甘い美味となる。木からもぎ取ったばかりの渋柿を一度だけかじったことがあったが、口中の粘膜に渋みがこびりついて、水を飲んでも消えなかった。とても食べられたものではない。

自分の記憶では、柿の木に梯子を立てかけて収穫をしていると、なぜだか決まってグラグラと地面が揺れ出したのを覚えている。それを合図に、子どもたちは一斉に環状七号線に駆けつけた。すると、目の前を巨大な戦車や装甲車が轟音を立てて通り過ぎて行く。陶然として自分はそれを見つめていた。昭和40年代は毎年決まって同じ日に自衛隊のパレードが行われていたのだ。

今日の聖書の言葉。

キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
コロサイの信徒への手紙 3:16 新共同訳

収穫をすると、グラグラと地面が揺れ、轟音がするという。考えてみれば、とっても終末論的な光景だったなあ、と今にして思う。イエスは福音書の中で「神の国」について、たとえ話を様々に使って説明しているけれど、その一つに、実が熟すると刈り取りをする。神の国もそれに似ている、というのがある *¹。イエスの十字架と復活によって、神の国が到来した。神の国は成熟の時を待っている。季節が深まり、実が熟すると、世界は刈り取られ、天使のラッパの轟音で宇宙は揺れ動き、大団円を迎えることになる。

熟していない実というのは、食べられたものではないから、熟するまで忍耐深く待つことになる。イエスは収穫のために再び来る、と予告したが、いったいどれだけ待ち続けていることだろう。世界の終焉・イエスの再臨・新しいエルサレムの到来、という超歴史的な出来事は、今日もまだ起きていない。遅延の理由は、実がまだ熟していないから、という以外には考えることができない。

実が熟するとは、どいうことだろう? パウロはガラテヤのクリスチャンたちに宛てた手紙の中で、聖霊の実について書いている *²。それを読むと、神がイエスを通してわれわれに与えている「聖霊の実」には9つの属性があることがわかる。愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制だ。これらが聖霊の実の甘味成分なのだ。聖霊の実は、自分が楽しむためのものではないことは明らかだろう。なぜなら、実は、他者に食べてもらうための実なのだから。実が自らを食べ尽くす実であったら、オバケだ。

自分は9つの甘味成分について成熟していると言えるだろうか? 個人の次元だけでなく、集合体としてのキリストの教会は、どうだろうか? 野に生えている柿の木であったら、実を取って食べる相手を木が選ぶことは出来ない。実は、すべての他者に開かれている。自分に与えられた9つの甘味成分は、自分の選り好みで特定の誰かに限って向けるものではない。出会った誰にも条件なく向けるものだ。相手が無神論者であっても、仏教徒であっても、イスラム教徒であっても、多神教徒であっても、甘味に変わりがあるはずがない。それは、愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制なのだから。

そのように考えれば、個人としての自分も、集合体としてのキリストの教会も、成熟までには、まだ道のりがある、と言うことになるだろう。十字軍・魔女狩り・異端審問・奴隷貿易・アパルトヘイト。これらの黒歴史は、渋柿の渋みのように口中の粘膜にこびりついて、水を飲んでも洗い流すのが難しい。実が本当に甘いかどうかは、実それ自体が自ら判定することはできない。実を取って食べた他者にしかできないことだ。そういう意味では、クリスチャンのスピリチュアリティは、市場いちばの他者の味覚による評価に晒されていることになる。それは、恐ろしいことだ。他者に出会うことは、小さな「最後の審判」の予行演習なのだ。

しかし、実は必ず熟する。なぜなら、実であるのだから。そして、それは、甘い美味に変わる。もし、渋柿であったとしても、人間が焼酎を吹きかけて無理やり成熟させるように、「神」もそうするだろう。実際、イエスは弟子たちに、息を吹きかけて言った。

そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
ヨハネによる福音書 20:22-23 新共同訳

聖霊の実の甘味成分に対して、渋み成分は、いくつあるのだろう? 渋柿の場合はタンニンだが、人間には、ただひとつの渋み成分があるのではないかと思う。それは、他人を赦さない、ということだ。

だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ
赦されないまま残る

イエスから聖霊の息吹を受けていても、イエスの言葉を忘却し、他人を呪って日々を過ごしているならば、神の国の成熟・イエスの再臨・新しいエルサレム・宇宙の大団円は、遅延するばかりだ。だから、遅延させないために、今日、意を決してイエスの言葉に従わなければならない。その従う、とは、大それたプロジェクトに手を付ける、というようなことではない。単純に、相手を赦す、ということだ。赦す決意をするならば、今日を生きる姿勢は、自ずから決まって来ると思う。

キリストの言葉が
あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい
知恵を尽くして互いに教え、諭し合い
詩編と賛歌と霊的な歌により
感謝して心から神をほめたたえなさい

註)
*1.  Cf. マルコ 4:29
*2.  Cf. ガラテヤ 5:22

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