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全集中の呼吸で静止する、コロナの初夏。
クリスチャンをやってると、「ゆだねます」「ゆだねればいいんだよー」「おゆだねしますー」という言葉を聞いたり、自分で自分に言い聞かせるシーンが、けっこうある。
ゆだねる、ゆだねてしまう、って、なんか、消極的で受動的で無気力的な感じがするけど。。。
でも、実際、ほんきで「ゆだねる」ことをしてみようとすると、それは、ぜんぜん、消極的でも受動的でも無気力的でもないことが、わかるんだ。
今日の聖書の言葉。
主に自らをゆだねよ 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
詩編 37:4 新共同訳
ゆだねるってことは、ほんきで、全力で、全集中の呼吸でやらないと、できないんじゃないかと思う。
ゆだねます、って言いながら、ゆだねきれていない場合には、自分で覗きに行ったり、意味もなく動いてみたり、待つべきなのに待ちきれなかったりしてしまう。
で、そういうとき、自分の場合かならず、びんぼうゆすり、をしてしまう。
意識が散漫だからだよねー。
意識を完全に神に向けて、神への信頼のうちに、自分の問題も、状況も、置かれた環境も、すべてぴしーっと神の手に、ゆだねる。ゆだねてしまう。
すると、その、ぴしーっ、が、意識のすみずみに、指先に、ひざに、足の先に、ゆきわたっていく感覚がする。だから、動かなくなるんだ。
逆に、なんかテキトーにやってるとき。。。はい、はい、そうね、みこころが成るんだよね、みこころ、みこころー、みたいなノリでやっているときには、意識は、信頼・不安・恐れ・焦燥(やっぱり自分で何とかしなきゃ!)の混合物になっちゃってる。
で、混合物の振幅がまんま、びんぼうゆすりになって、出て来る。
完全に神にゆだねていると、その外見は、たぶん、コマみたいに静止して見えるんじゃないかなー。
でも、静止してるように見えてるだけで、実は、ぴしーっ、って高速回転しているんだ。
ぐらぐら、ぶらぶら、ゆらゆら、しないで、ぴしーっ、って生きたいもんだね。このコロナの初夏。
まあ、難しいんだけどさ。。。
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