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世界、創造主、自由意志、今日の自分、っていう話です。

世界は、美と優しさ満ちている。

世界は、醜と残酷に満ちている。

今日、自分が目にするのは、どっちの世界なんだろう?

今日の聖書の言葉。

主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。
ヨハネの黙示録 4:11 新共同訳

創造主を信じるという立場にどこか苦しさがつきまとうのは、人生で醜と残酷を多く目にするターンになったとき、それをどう受け止めたらいいか悩むからだろう。

きっといま、世界はそのターンに入っていると思うんだけど。。。

それはつまり、なぜ創造主は醜と残酷をこの世界で許容しているのか、っていう問いになる。

この問いに正面から取り組んだファンタジー映画『バンディットQ』(1981) というのがある。

どういう映画かと言うと。。。

タイムホールに落ちた11歳の少年ケビンが、すったもんだがあった挙句、ラスボスである「悪魔」と対決し、絶体絶命の窮地に陥るのだ。

しかし、すんでのところで、スリーピースに身を包んだ校長先生みたいな「創造主」があらわれて、指先ひとつで悪魔を粉々にしてしまう。

少年は創造主に「どうして悪が必要なの? あなたが悪を創造したせいで、歴史上多くの人が死んだのでは?」と質問するんだけど、創造主は「自由意志のためだ」と答えて、姿を消す。

ほんとうに、ただ自由意志を担保するだけのために、世界はこんなふうな世界である必要があるんだろうか?

それについては、考えても、考えても、答えにはたどりつけない。謎だ。

でも、この自分の自由意志ってことを考えると、美と優しさのほうを選び取ることも、醜と残酷のほうを選び取ることも、確かに出来てしまえるんだよね。。。

美と優しさへの憧れと、醜と残酷への誘惑のはざまにあって、揺れ動く自分。それが自由意志が存在する証拠なんだろうかねー。

今日、自分はこの世界にあって、美と優しさのほうを選び続けたいと思う。

どうかそうすることができますように、誘惑に打ち勝つことが出来ますように、と創造主に祈り求める。イエスが教えてくれた、この祈りを唱えることによって。。。

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日も お与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
アーメン

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