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気持ち的には、法華経のヒーロー・常不軽菩薩みたいな覚悟で行きたいと思います。

日本語っておもしろいなあと思うのは、同じ漢字でもルビのふりかたがちょっと違うと、意味が変わっちゃうとこだよね。

今日の聖書の言葉。

神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、 また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。
コリントの信徒への手紙二 10:5 新共同訳

今日の聖書の言葉にでてくる「思惑」だけど。。。

これを、オモイマドイ、とするか、オモワク、とするか、シワク、とするかで、ちがった意味になっちゃう。

こんな感じだ。。。

【オモイマドイ】とした場合。あれこれ考えて、どうしたらよいかわからなくなる。行くべき道を失う。途方にくれる。思い迷う(by 日本国語大辞典)

【オモワク】とした場合。あらかじめ考えていた事柄。考え。意図。また、見込み(by デジタル大辞泉)

【シワク】とした場合。仏語。修道で断ぜられる煩悩。欲界の貪・瞋・痴・慢の四煩悩などをいう(by 日本国語大辞典)

おっと。仏語をフランスゴとするかブツゴとするかで、また意味が変わっちゃう(笑) ここは、ブツゴ、つまり、仏教用語ということだね。

新共同訳聖書は、オモワク、とルビを振っているから、「人間の考え・意図・見込み」を言ってるんだなー、ということがわかる。

でも、もし、シワク、と読んだら、どういう展開になるんだろうね?

こっから先は自分の想像だけど。。。

シワクというのは貪・瞋・痴・慢という4つの「錯誤」を指していて。。。

貪(自分の好むものをむさぼり求める)
瞋(自分の嫌いなものを憎み嫌悪する)
痴(ものごとに的確な判断が下せずに迷い惑う)
慢(自分を高くみて他を軽視する自己中心的な思い上がり)

なんか、自分にあてはまることばっかじゃん。。。

じゃあ、どうしてそれが「錯誤」か、というと。。。

ほんとは自分という固定した実体が存在するわけではないのに、自分という不変の存在がある、と勘違いして、自分の考えに執着するから、その結果、いろいろ誤りが発生する、ということなんだ。

今日の聖書の言葉には「高慢」というワードも出て来る。シワクの結果が高慢(自分の才能・容貌などが人よりすぐれていると思い上がって、人を見下すこと。また、そのさま)だね。

どうしたら、そういう錯誤から、解放されることができるんだろう?

この問題の根本にあるのは自分に対する執着なので、解決方法は「自分」にどういうポジションを割り振るか、ということに尽きるんだと思う。

そこでヒントになる聖書の言葉があるとしたら、これ。。。

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら
 キリストと共に生きるようになる
 *¹

生きているのは、もはやわたしではありません
 キリストがわたしの内に
       生きておられるのです
 *²

もうね、スパっ、と一瞬でこの心境に立てたら、人生ラクだと思うんだけど。まあ、信じるしかないよね。信じよう。。。

信じた結果、自分は他者に対して、どうふるまようになるか、というと。。。

何事も利己心や虚栄心からするのではなく
へりくだって
互いに相手を自分よりも優れた者と考え
めいめい自分のことだけでなく
   他人のことにも注意を払いなさい
 *³

さっき「自分は死んだ」「キリストが生きている」とスパっと信じることに決めたけど、次のステップとして、他人にどう接するか・相手を自分より優れた者と考えるためにはどうしたらいいか、ってことになる。

ヒントとなるのは、これだろうか。

あなたがたは死んだのであって
あなたがたの命は
  キリストと共に神の内に隠されているのです
 *⁴

他者、あるいは、相手のうちに、キリストの命が秘められてる、ってとこが重要なのかなー、と思う。

とは言っても、相手のなかにキリストが生きている、ってことは、目に見えてわかるものではない。

だから、やっぱり、信じるしかないんだよね。。。

「ちぇっ、こんなやつ」って思うのは、簡単だけど。そうじゃなく、このひとのうちにキリストの命が秘められている。永遠の朝が到来したら、その命が発現する。だから、それを先取りして「尊い」と思って、接しよう、ってことだろうか。

まあ、法華経のヒーロー・常不軽菩薩みたいに相手に合掌することまではしないにしても、気持ち的にはそれぐらいの覚悟でもって、相手に接して行きたいと思います。。。行きたいです。。。てか、行きます。

註)
*1.  Cf. テモテ二 2:11
*2.  Cf. ガラテヤ 2:20
*3.  Cf. フィリピ 2:3-4
*4.  Cf. コロサイ 3:3

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