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窓を開け放っても、どんよりした心が晴れない。どうする? っていう話です。

朝から、とってもつらい知らせを聞いて、心がどんよりしている。

どんよりした心をどうにか晴らしたいと思って、家じゅうの窓という窓を開けて、風を入れてみた。

なんてさわやかな陽春の風だろう。薄い緑色のひんやりとした空気が目に見えるみたいに感じられる。

でも、残念ながら、どんなに窓を開けても、それは自分の心のなかにある重いものを吹き消してはくれなかった。

今日の聖書の言葉。

互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
ヨハネによる福音書 13:34 新共同訳

「悪の力」というのは、恐ろしくて、怖くて、強くて、重くて、忌まわしいばかりでなく、それに直面した人間を即座に圧倒する即効性を持っているように感じる。触れたらすぐに死んでしまうみたいな感覚だ。

それに対して「善の力」は、小さくて、弱くて、もたついて、おぼつかなくて、はかなくて、だから、それに触れた人間の本性が変えられるまでに、それこそ何年も何十年も時間がかかってしまうように感じる。

「互いに愛し合いなさい」って書いた段ボールをかかげたら、その瞬間に数キロ四方のひとたちがバーンって倒れて、立ち上がったら全員が、お互いを心から愛し合う善人に変貌していた! みたいなことはマンガですら想像できない。

一瞬で数キロ四方のひとたちの命を奪う即効性の「悪の力」によって圧倒されつつあるこの世界。残念ながら今日の自分の心がどんよりしているのは、自分もまたそれによって圧倒されているからだろう。。。

そういう世界について聖書は悲観的な見方をしている。

この世全体が悪い者の支配下にあるのです。
ヨハネの手紙一 5:19 新共同訳

でも、だからと言って、絶望してはいけないよね。絶望しないための理由を探して、神の本のページを繰っていたら、こう書いてあった。

わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。
ヨハネの手紙一 5:18 新共同訳

どんなに悪の力が圧倒的でも、それに飲み込まれて自分までダークサイドに落ちたくはない。そんなのイヤだ。

圧倒的な悪の力に対して毅然としてNOと言いい、自分はそれに支配されない、って宣言することができたら、どんなにいいだろう。

いま、言葉は死んで、理性の時代が終わったように見えるけれど、でも、言葉が死んでも死なないものは、まだあると思う。

たとえば、良心? 良心に焼き印を押されて神経を切られでもしない限り、すぐにわかるじゃん。自分にとって、なにが愛すべきことで、なにが邪悪なことであるかは?

どんよりとした心を晴らしたいと思って、いろいろ考え過ぎて、そのためにアナキン・スカイウォーカーみたいになってしまってはいけないよね。

だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。
ヨハネの手紙二 1:9 新改訳第二版

じゃあ、悪の力に打ち勝つために、自分はどこに戻ればいいんだろう? 神の本はこう勧めている。

わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。 愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。
ヨハネの手紙二 1:5-6 新共同訳

そうなんだよね。やっぱり、愛しかないんだよね。悪に打ち勝つのは「愛」なんだ。それをもう一度、信じてみよう。

愛については、最初から聞かされていて、それからずっと何万回も聞かされていて、だから耳にタコができるほどだけど、でも、圧倒的な悪の力に脅かされるこの世界にあって、やっぱり自分が立ち戻るべきなのは「愛」しかない。

なので、まず、自分がどっぷり愛に浸ろう。。。

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
ヨハネの手紙一 4:9-10 新共同訳

愛にどっぷり浸って心が充電されたら、その愛を流し出して行こう。自分のまわりに。それから、悪で圧倒されているこの世界に、少しずつ、少しずつ。。。

愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
ヨハネの手紙一 4:11 新共同訳

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