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今日も心の中の葛藤を、自分の小さな十字架として受け止める、っていう話です。

55歳という年齢を通過して56歳になり、いよいよ60歳に近づいているわけなんだけど。。。

そのなかで、自分に微妙な変化が起きているなあ、と感じさせられる。

まあ、いろいろな変化がちょっとずつある。。。

記憶が抜けるとか、何か言われてもわからなくて聞き返すとか、目の前にあるものがわからないとか。。。

今朝なんか、テーブルの目の前にマーガリンがあるのに、冷蔵庫に行って「ない!ない!」って言いながらゴソゴソ探したりして、家人からあきれられた。。。

いろいろヤバイよね(苦笑)

もうひとつの変化は、いろんなことについて判断を保留するようになってきたことだ。。。

以前の自分だったら、すぐ判断し、すぐ結論を出していた。

その判断の仕組みは、どういうのかというと。。。

自分のなかに「正義」という要素と「恵み」という要素があって、それがココロのなかでいつも葛藤し、ぶつかり合い、闘争している。

で、ココロのなかの闘争は5分で決着して、正義が勝つか、恵みが勝つか、単純明快に答えが出た。

それはつまり、こいつ絶対ゆるさない、とか、このひと100パーセント赦します、とか、両極端ではあるんだけど。。。

今日の聖書の言葉。 

正義を洪水のように 恵みの業を大河のように 尽きることなく流れさせよ。
アモス書 5:24 新共同訳

それがねー。。。最近は、どうもなんか判断が付かないんだよね。。。

判断が付かないというか、そもそも判断する意欲がわかないというか。。。

そりゃ、もちろん、事象に遭遇したときに、ココロのなかの葛藤は起きるよ。

正義の要素も、恵みの要素も、自分から消失してしまったわけではないからさ。。。

ただ、ね。。。

ココロのなかで自分の「正義」が勝ったとして、それが本当に正義だと言えるのだろうか? 

逆に、ココロのなかで自分の「恵み」が勝ったとして、それが本当に恵みだと言えるのだろうか?

そこでけっこう立ち止まってしまうようになったんだ。

だから、判断がつかない。ゆえに、答えが出ないんだよね。。。

それはどんな感じかと言うと。。。

こいつ絶対ゆるせない気もするけれど。。。でも、しばらくしたら赦せるようになるのかもしれないなあ。。。なので、様子を見てみようかな、みたいな。。。

つまり、白黒はっきりさせないと気が済まなかった自分が、白黒はっきりしないグレーゾーンを許容できる自分に変化している、ってことなんじゃないかと思う。

それが、いったい、良い事なのか、どうか。。。

正義を洪水のように
恵みの業を大河のように
尽きることなく流れさせよ

今日の聖書の言葉を見ると、これ、大丈夫なのかなあ、って思う。

だって、洪水のように押し寄せる「正義」と、大河のように流れる「恵み」がぶつかりあったら、どんだけスゴイ葛藤、ぶつかり合い、闘争になるのか。。。

大爆発するんじゃないか、って思うよ。。。

二項対立するこれらの要素を、若かった時は血気盛んに簡単に引き受けられるって思っていたけど、いまは、もはやキャパが無い。

対立する「正義」と「恵み」は、人類の歴史のなかで、この先どういうダイナミズムで展開して行くのか。。。それを考える作業は、もうとても自分には無理だと感じる。

そういうときは仕方がないので、十字架を見上げる。。。

洪水のように押し寄せる「正義」と大河のように流れる「恵み」が衝突した地点がイエスの十字架だと思うから。

父なる神の「正義」の要求と、堕罪した人類が求める「恵み」の要求は、子なる神の身体で衝突して十字架となって、復活へと昇華した。

正義と恵みが合体したみたいな十字架を見上げる時、ああ、自分のココロのなかに、いま、小さな十字架が確かにあるよなー、って感じる。

いま、この瞬間も、自分のココロのなかで「正義」と「恵み」が葛藤している。その葛藤こそが自分の負っている小さな十字架だ。

この葛藤を、このまま抱えて生きながら、いつか復活に至ると信じる。。。

だから、復活の日が来るまでは、軽々に判断して、誰かに見切りをつけたり、扉を閉じたり、切って捨てたりするようなことは、やめておこう。もう少しだけ、先延ばしにしておこう。。。

自分がそんなふうに思えるようになるなんて、若かった頃には想像もつかなかったよ。。。

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