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救われたい、救われている? 救われた! っていう話です。

救われたい、救われたい、っていうことを中学のときからずーっと願い求めて今日に至っているんだけれど。。。

四捨五入するともうよわい60に近づいているいまになって感じることは、結局救われたいというのは自分自身から救われたいっていうことなんだろうなー、と思うようになっている。

だって、結局、あー、つらい、あー、いやだ、あー、どうしよう、あー、困った、っていうのは、ぜーんぶ自分に関わることから発しているわけだから。。。

そこからはじまって、自分はどうしたら救われるんだろう、っていう願望、熱望、もがき、あがき、葛藤が生じているわけだから。。。

で、あれこれいろいろ試してみたあげく、救われた実感があるような日もあれば、無いような日もあって、思い悩んで、どうした自分? とかってやっているわけだから。。。

だから、この自分というものへのフォーカスがなくなってしまえば、すべての悩みが雲散霧消してしまうのかもしれないなー、って。ええ。極論です。

今日の聖書の言葉。

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
ローマの信徒への手紙 10:13 新共同訳

今日の聖書の言葉は、救われることは拍子抜けするほど簡単であることをバーンっと告げている。

ただ、イエスさま、って呼びさえすれば、それだけで救われてしまうという、驚くべき単純さ。。。

そこには、自分がどうして・こうして・ここまでやって・だから・ゆえに、みたいな機序や構造やプロセスは、どこにも見当たらない。

自分がどうこうする余地など皆無なのだ。

だから、この単純さを前にすると、自分は立ち止まってしまうのだろう。

いや、こんなに簡単に救われるはずがない。もっと自分が関与すべき余地があるはずだ、って思って、受け入れることができないのだ。

自分がレスペクトしている故小西芳之助(高円寺東教会牧師)は、聖書の救いの音信はとどのつまりローマ10:13に集約されると指摘していて、イエスの名を呼びさえすればそれだけで救われるという「称名しょうみょうの救い」を小西が確信できるようになったのは、学生時代に内村鑑三のもとで聖書を学び始めてから50年を経過してからであったそうだ。

自分は中学2年でクリスチャンになって今年で42年目になるけど、なんだろうね。。。まだ、いろいろやって、もがいて、あがいている感じがする。

それは結局、自分が・自分の・自分を・自分に・自分で、というこだわりを捨てきれていないところから来ているのだろうと思う。

主の名を呼び求める者はだれでも救われる

はい。そうです。そのとおりです。イエスさま、と呼んだので、わたしは救われました。それ以上なにも付け加えることはありません。。。

っていうふうになれたら、それは救いの始まりである、っていうよりかは、むしろ、救いの完成である、っていうことなのかもしれない。

なぜなら、それはもう「自分」から完全に解放されているっていうことの証拠だとも思えるから。

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