もうほんとに歌いたくてしょうがない状態になってしまうことへの考察。
人間はなぜ歌うんだろう?
現代的な考え方で行けば、生存戦略として歌をうたう個体のほうが生き残ったからという答えになるのかもしれないけど。
登山家になぜ山に登るのかと聞いたら、そこに山があるからと答えたという話がある。
その線で行ったら、なぜ歌うのかと聞いたら、生きていると歌いたくなるからという答えになるのかもしれないねー。
生きることは歌うこと。歌うことは生きること。
なんかわからないけど歌いたくなる。それはまるで存在からあふれ出て来る内発的な力のようだ。
今日の聖書の言葉。
歌わずにいられないっていう感覚を神学的に表現するとしたら、「人間が先験的に持つ存在の志向性」(カール・ラーナー)と言うことになる。
自分という存在からあふれ出て来る志向性としての「歌」。
志向性だから、自分から対象へ向かうベクトルであるわけだよね。
しかも、一方向のベクトルではないよね。対象から自分へレスポンスが返って来ることを期待してもいるわけだから。。。
じゃあ、その志向性がどっから来たのかということなんだけど。
神学的に考えると、それは人間が「神のかたち」に似せて創造されているからということになる。
まあ、簡単に言うと神のコピーが人間ということだね。
コピーのオリジナルである「神」はどういう神かというと。。。
神という存在があって、神からあふれ出た神性があますところなく見えるかたちをとって宿ったのがイエス・キリストだ、と聖書は言ってる。
ここで言われている機構(メカニズム)は
① 神という存在がある。
② その存在から神性があふれ出る。
③ あふれ出た神性があますところなく見える形を取ってキリストとなる。
ということなんだけど。。。
これは 神 → キリスト というベクトルになっているよね。
神学的には、ベクトルの左側は「父なる神」、ベクトルの右側は「子なる神」、ベクトルの方向が「聖霊」ということになる。
さらに、子なる神は父なる神に対していつも・たえず・つねに・愛というレスポンスをしているわけだから、図式的には 神 ← キリスト というベクトルで表現することもできる。
で、こういう機構そのものであるキリストが、人間を満たしていると聖書は言うんだ。
あなたがたは、キリストにおいて
満たされているのです
存在の内側からあふれ出て愛の対象をかたちづくり、その対象に向けて愛を永遠に送り続け、その対象から返される愛を永遠に受け取り続ける三位一体の神。
そういう機構でもって「人間」は満たされていると聖書は言うんだ *。
我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう
だから、人間はデフォルト状態で歌わずにはいられない存在なんだ。なんだかわからないけど自分の内側からあふれ出たものが「歌」となって対象へ向かって行っちゃう。先験的にそうなっちゃっているんだ。
信仰の有無を問わず、およそ人間は歌いたくなる。歌いたくてしょうがなくなる時がある。それが人間だ。そして、それこそが人間が神へと向かい続ける志向性を持っていることの証しなんだと思う。
喜び祝い、主に仕え
喜び歌って御前に進み出よ
註)
* Cf. 創世記 1:26
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