聖霊という、わかりみの深さ。。。
自分の父はパルタイのシンパで無神論者だった。
なので、神がいるか・いないか、をめぐって中学時代によく父と議論した。
神の存在を中学生が証明できるはずもないので、自分にとっては非常に不利な議論だったなー。
負けが込んでいたのは確かだ。認める。
でも、おかげで信仰が鍛えられた、という面はあるかもしれないねー。
「神」という単語は、われわれの手の中に確かにあるよね。
だって、KAMI ってタイプすれば標準変換ですぐ「神」って出て来るし。
で、その単語が指し示す「神の概念」については、人類のアタマのなかに確かに存在している。
考えてみれば、無神論者のアタマのなかにさえ、神の概念はあるんじゃないだろうか?
だって、神の概念がなかったら、無神論という概念も成り立たないじゃん。
問題は、神の概念が指し示しているところの実体としての「神」が、いるか・いないか、ということなんだけれど。。。
「神」はテレビに登場しない。新聞で報じられることもない。Twitter やInstagram のアカウントを持っていて「神です。今日は東京に来てます」なんて投稿することも、ない。
神は神だから、やろうと思えばやれるはずだよね。だって、神には何でもできるんだから。
でも、神は、そうしない。
今日の聖書の言葉。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
ローマの信徒への手紙 3:23-24 新共同訳
世界における「神」の不在の問題。
これは、世界の後背にお隠れになっているカミ、というふうに言うことができるかもしれない。
聖書を読むと、原初の世界において「神」は人間とすごい近い距離にいたらしいことが、わかる。
ヤコブなんて「神」と相撲して勝った、っていうぐらいだから、どんだけ近いのよ、と思っちゃう。
でも、聖書の記述が進むにつれ、「神」がダイレクトに登場するシーンは、どんどん減っていく。
「神」が人間の目にみえる形で現れた状態を、後期ユダヤ教(第二神殿時代のユダヤ教)のラビたちは「シェキナー」(神の栄光)と呼んだ。
で、聖書に示されたイスラエル・ユダヤ人のストーリーは、いかに「シェキナー」が世界の後背へ退いて行ったか、という構成になっていると思う。
なんで「シェキナー」は世界から去ったのか?
原因は、今日の聖書の言葉が指摘するとおりだ。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています
自分の想像だけど、もし「神」が世界に登場して、すべての人間の罪を糾弾し始めたら、世界の運行は停止してしまうんじゃないだろうか。
だって、神だからね。。。ある人物の過去を Twitter民が全力でほじくって黒歴史をひっぱりだす、なんてレベルじゃあ済まないわけで。。。
もう、ほんと、あらいざらい、すべての行状が、いや、行状どころか、こころのうちにひそかに思っていたことまで、ぜーんぶ白日のもとにさらされちゃう。
なので、聖書が言うように、「神」が再び世界を訪れる日は、イクオール、世界が終焉する日、ということになるんだろう。
早くそうなってくれりゃあいいのに、と思う自分がいないわけでもない。ひとの悪行にこころを痛めるときなんか、特にそう思っちゃう。
でも、聖書は、そこで終わらない。
神の栄光である「シェキナー」は、ひとにやさしいかたちで、ひそかに世界に降り立っていた、と言うんだ。
どこまで、やさしいか、と言うと。。。
神が、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけのワラの上に小さな赤ん坊となって降り立ってしまうほどの、やさしさ。。。
それは、われわれが抱きしめることができるほどに「神」が無力で小さくなってくれた、ということだ。
それだけじゃない。イエスは、身代わりとなって十字架にかかることで、全人類のすべての罪を。。。それが、白日のもとに明らかになっている罪であっても、だれにも知られずに隠されている罪であっても。。。すべての罪を、ゆるしてくれた。
罪を犯しているか・いないか、は、だれの目にもわからない。
でも、自分だけには、わかる。
そして、イエスが十字架にかかり復活したのは、自分の罪をゆるしてくれるためだ、と認めた時に、神の栄光である「シェキナー」が、自分のこころに入って来てくれる。
それは、ほんとうに不思議な体験だ。
だって、テレビに登場しない、新聞で報じられない、Twitter や Instagram のアカウントも持っていない「神」が、確かにいま自分のこころに宿ってくれる、ということが、実感できるんだから。
あなたがたが子であることは
神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を
わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります *¹
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく
神の子とする霊を受けたのです
この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです *²
なんでそんなことがわかるんだ、と言われるかもしれないけれど。。。
これは、主観的な体験によるものなので、ただ「わかるから、わかるんだ」としか言えない。
イエスの十字架と復活によって、すべての罪をゆるされて、神に向かって「アッバ、父よ!」と祈るとき。。。あの、世界の後背にお隠れになっているはずの神は、確かに自分のこころに宿っている、ということが、わかる。
わかるから、わかるんだ。
その「わかりみの深さ」というのは、聖書が言うとおり「聖霊」としか表現のしようがないものだ。
註)
*1. Cf. ガラテヤ 4:6
*2. Cf. ローマ 8:15
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