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あきらめないで生きてみよう。

無理ゲーという言葉がある。

日本語の単語として定着しているような、していないような。

デジタル大辞泉には掲載されてるから、まあ、日本語になってるってことでいいのかな。

1980年代から家庭用コンピューターゲーム機が普及し始めて以来、ほんと、いろんなゲームソフトウェアが作られて来たんだけど、なかには難易度が異常に高すぎて何回やってもクリアできないものがあった。

いつしかそれらは「無理ゲー」と呼ばれるようになり、そこから転じて、人生の打開困難な状況、さらには、人生そのものを無理ゲーと呼ぶようになった。

今日の聖書の言葉。

すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
コリントの信徒への手紙一 13:7 新共同訳

というわけで、今日の聖書の言葉は無理ゲー系の聖句のひとつだ。

いったい人間の度量でもって、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える、なんてことができるのだろうか?

もちろん、できたひとのことをわれわれは知っている。それは、ひととなった神であるイエス・キリストだ。

でもイエスの場合、デフォルト状態で「神」なんだから、無理ゲー系のタスクを楽々と達成できて不思議は無いわけで。

問題は、ただの人間、しかも、聖書によればアダムの堕罪によってデフォルト状態で「罪人」になっているわれわれに、このタスクが出来るか、っていうこと。

結論はもちろん無理ゲーでしかないわけで。。。

なので、自分にあてはめた場合、考え得るのは、いかに忍べないか、いかに信じられないか、いかに望みを失い易いか、いかに耐えがたいか、ということばっかり。

自分の経験上、事前に関係者の了承を得て時間をかけて段取りして来たプロジェクトをいとも簡単に覆された上に「聞いてなかった」なんて言葉をかけられた日には、ブチ切れてしまう。まあ、あたりまえか。

その悔しさと言ったら、もうね、恨みに近い感情。怨恨。呪詛。そんなのを数週間から数か月は持続する。もちろん、腹の底にためて表には出さないけどさ。

時間が経過すれば、そういう気持ちも忘れられるようになる、と同時に、自分の度量の小ささというか、器のちっぽけさを痛感させられる。

それに比べたら、ああ、なんというイエスの器の大きさよ。。。

イエスは過去・現在・未来のすべての人類の総計がやらかした失敗・裏切り・罪・不出来をひろーいこころで残らずすべて受け容れて「赦す」と言うんだから。その度量たるや、事実上、無限だ。

この自分のことをイエスはその無限の度量でもって忍び、信じ、耐えていてくれる。

そればかりか、自分に対してイエスが望みを抱いてくれている、ってところが驚きだ。

イエスがわれわれに抱いている希望。それは、イエスに結ばれたわれわれが、イエスの力によって変えられて、イエスに似た者になれる、という希望だ。

これから先のことは想像もつきませんが、ただこの一事だけはわかっています。つまり、キリストが再び来られる時、私たちはキリストに似た者となるということです。その時、キリストのありのままの姿を見るからです。
ヨハネの手紙一 3:2 リビングバイブル

この自分がイエスのようになれる、という希望を、もし自分で自分のうちに保持しなければならないとしたら、それこそ無理ゲーだろう。そんな大それた希望、1時間でも持続できない。

しかし、この希望を抱いてくれるのは、イエスなのだ。

そして、イエスは人となった神であるわけだから、イエスが抱いた希望は、ほんとうにそのとおりになる。なにせ、神だからねー。

今日も自分は、忍び、信じ、望み、耐えることに失敗する。それが自分のリアリティーだ。

そんな自分をイエスは今日も忍び、信じ、耐え、かつ、望みを抱いていてくれる。いつの日か自分が変えられてイエスのように愛せるようになる、という希望をけっしてあきらめることなくイエスは抱き続けてくれる。

イエスにとってそれはぜんぜん無理ゲーではないのだ。

なので、あきらめないで生きてみよう。

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