和解する、ということ。
ひとはひとをどこまで赦すことができるのか?
ときどきそれを考える。。。
ここまでやったら、あるいは、ここまでやられたら絶対ゆるせない、という限界線みたいなものがあると思う。
向うが限界線を越えてきたり、こっちが越えてしまったりした場合、関係性はジ・エンドということにならざるを得ない。
もちろん、うっかり越えてしまうということはあるだろう。でも、それが二度も三度も無反省に繰り返されたら、関係性は修復不能に近いかたちで壊れるよね。
今日の聖書の言葉。
イエス・キリストは人類の身代わりに十字架にかかり、死んで、三日目に復活してくれた。イエスが払った犠牲のおかげで、われわれの罪はそれがどんな罪であってもゆるされることができる *¹。
そして、ゆるされた人間は聖霊によってあつめられて教会をかたちづくる。。。のだけれど。。。問題はその先にあるんだ。
どんな罪でもゆるされるんだから、教会では何をやってもゆるされるかというと、そういうことにはならない。
越えてはいけない限界線がやっぱり教会にもあるんだよね。
パウロがコリントの教会に宛てた第一の手紙では、あるクリスチャンのことが取沙汰されている。そのひとは異邦人でもやらないようなとんでもない罪を犯してしまって、しかも、間違いを指摘されても生き方を変えるつもりがないらしいことが明らかになり、パウロは除名するしかないねと指示を書き送っている *²。
でも、踏み越えてしまったひとが心から反省して、神にたちかえり、生き方を変えると言うのであれば、驚くべきことにそのひとはゆるされるんだ。
なので、第一の手紙で除名されたはずの人物について、パウロは第二の手紙では除名を取り消して、もういちどそのひとを教会に受け入れなさい、と変更した指示を書き送っている *³。
ホトケの顔なら三度まで。教会の場合、何度までゆるされるんだろう?
もちろん、ゆるされるには本気で罪を悔い改めていることを示す必要がある。。。けど。。。そうやって悔い改めたとして、三度までなんだろうか?
イエスは、なんと、七を七十倍するまでゆるしなさい、と言ってる。
うむぅ。。。こうなると、教会というところは、越えていけない限界線が俗世より厳し目に設定されているように見えながら、その実、限界線を越えてしまっても本気で悔い改めるなら、ゆるされてしまうという。。。なんだか限界線があるようでないような。。。ないようであるような。。。一種独特のスフィアーをつくっている感じがする。
そのスフィアーでは、やらかしてしまった側もやらかしたひとを受け入れる側も、覚悟が問われる。
それは、悔い改めることの本気さと覚悟。そして、ゆるそうとすることの本気さと覚悟だ。しかも両方の側が十字架につけられ・復活した・イエスを見つめていないと和解は成立しない。
残念ながら、その和解は現実の教会ではなかなかハードルが高いんだよね。
だから教会はたえず教会になっていかないといけないんだと思う。
註)
*1. Cf. ローマ 8:1-2
*2. Cf. コリント一 5:1-5
*3. Cf. コリント二 2:6-10
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