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ほんとうにわれわれがオソレなければならない、本質的な問い。
地獄への道は善意で舗装されている、って、よく言われるけど。。。
まじめに、ひたらすら、いっしょうけんめい、命がけで取り組み、戦うことによって、世界が地獄の様相を呈する、ってことが、ほんとうにあるんだよね。。。
今日の聖書の言葉。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
マルコによる福音書 8:35 新共同訳
出だしの動機は、ちゃんとしてるように見えてたのに、「正しさ」の追求のなかで、だんだん変な方向にズレて行って、最終的に大惨事になってしまった、ってケース。。。
そういうケースって、歴史のなかから、いくらでもピックアップできる。
宗教戦争、革命、内ゲバ、総括、批闘、権力闘争、大粛清。。。
そのために死んだ犠牲者って、1ケースあたり数百万人から数千万人と言うんだから、ほんとうにオソロシイことだ。
自分の正しさを確信してしまうことで、敵対勢力に対して、どこまでも残酷になれてしまう、人間の不思議さ。。。
人類がこの悲劇を繰り返さないためには、どうしたらいいんだろうね。。。
簡単に答えが出る問題ではないと思うけど。。。
とりあえず、いま自分は、こう考えている。
そもそも、自分と〇〇っていう二項図式でものごとを考えちゃうことが、ダメなんじゃないか、って。
自分と〇〇、だと、最初から対立する前提しかない。
で、その前提に立って、ほんとうに対立した場合、自分が勝つか、〇〇が勝つか、どっちかしか、ないわけで。。。
そうなっちゃうと、じゃあ、どうやって勝つか、って話になる。
自分は絶対に正しいのだから、どんな手段を使ってでも勝ちに行く
あるいは
最後まで勝ち残ることしか、自分の正しさを証明する方法はない
ってことになると、自分と〇〇の戦いは、行くとこまで行って、殲滅戦とか大粛清とかになっちゃう。
なので、自分と〇〇という二項図式は、やめにして。。。
自分と〇〇とイエスという三項図式で考える、っていうことを、やって行くしかないんじゃないかと思う。
この場合の「イエス」は、敵対勢力に無抵抗であることによって、十字架につけられ、死んで、墓に葬られ、三日目に復活し、復活することによって勝利者となったイエスだ。
そういうイエスと自分と〇〇の三項図式で考えてみた場合。。。
もし、自分が〇〇を攻撃して、〇〇が滅んだ場合、イエスとの関係で言えば、勝利したのは〇〇であって、自分ではない。
逆に、〇〇が自分を攻撃して、自分が滅んだ場合、イエスとの関係で言えば、勝利したのは、自分であって〇〇ではない。
なぜなら、イエスはいつだって十字架サイドにいるわけだからねー。
自分と〇〇とイエスという三項図式の枠組みで考えるのであれば、自分は果たして、十字架につけられる側にいるのか、それとも、だれかを十字架につける側にいるのか、そこを注意して考えなきゃいけない、ってことになる。
そこを、あまーく考えていると、最終的にイエスから、「キミは、いつだって、だれかを十字架につける側にいたよね?」って問われかねないんだ。
で、そのイエスの問いこそが、ほんとうにわれわれがオソレなければならない、本質的な問いなんじゃないか、と思う。
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