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理解できない他者と共に、どのように折り合いを付けて生きたらいいのか、っていう話です。

どう考えても理解できない他者の言動って、あるよね。。。

考えても理解できないから、もうね、考えるのも無駄に感じて来る。。。

だから、まあ、考えるのを止めればいいんだろうけど。。。

でも、考えるのを止めても、理解できない他者が及ぼして来る不穏な影が。。。別に影が目に見えるわけじゃあ、ないけれど。。。その影が、光り射す道を暗くして来る。

今日の聖書の言葉。

死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
詩編 23:4 新共同訳

自分という存在を限界づける他者の不穏な影。。。

他者とは、自己の死を意味しており、自己の死を内面化したのものが「十字架」だ、と喝破したのは、哲学者のデイビッド・ヒューム(1711-1776)だけど。。。

そういう発言ゆえに、ヒュームは無神論者とみなされて批判され、エディンバラ大学では不遇をかこち、望むようなポストに就けなかった。

だけど、ヒュームがほんとうに言いたかったことは、十字架の否定、というよりは。。。むしろ。。。

自己と他者は、どこまで行っても分かり合えない関係だけど、にもかかわらず人間は、他者の他者性を自己の内に担ってまでして、他者と一緒に生きたいと願う。そのために、自己と他者の折り合いをつける精神的な構造が「十字架」だ、ってことを言いたかったんじゃないだろうか。。。

理解不能な他者が自分の人生に落とす暗い影。。。

死の陰の谷を行くときも

その影は、ふりはらおうったって、ふりはらえない。だって、他者。。。つまり、自分ではコントロールできない要因が、もたらしているわけだから。。。

でもね。。。その暗い影のなかを歩きながら、それでも自分が慰めを経験することができるとすれば、それはやっぱり「他者」のおかげ、によるんだよね。。。

死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない
あなたがわたしと共にいてくださる

理解できない他者のなかでも、最も理解できない他者。他者の最高峰。他者のなかの他者。他者の王様。究極の他者。それが「神」なわけだけど。。。

その究極の他者が、自分に向かって、こう言ってくれる。「わたしがオマエと一緒にいるよ。だから、生きろ。だいじょうぶだ」って。

いや、いや、いや、いや、なにが、だいじょうぶなんですか、って。そもそも、あなた、だれですか、って。わたし、あなたのこと、ちっとも理解できていないんですけど、って。

いろいろ、言いたいことは、あるんだけれど。。。

にもかかわらずの、このコトバ。。。

恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神
たじろぐな、わたしはあなたの神
 *

いや、いや、いや、いや、ほんとうなんですか? 

でも、ダメだしのように言われる、このコトバ。。。

  わたしは世の終わりまで
    いつもあなたがたと共にいる
 **

だからね。。。あきらめないで、生きてみよう、他者と一緒に。そりゃ、もちろん、疑う気持ちがないわけじゃあないけれど。。。

そして、イエスに会い、ひれ伏した
   しかし、疑う者もいた
 ***

でも、理解できないことがあるとしても、理解できない他者が。。。「神」が。。。一緒にいるよ、って約束していてくれるんだから。だから、信じてみよう、他者を。

。。。っていうのは、もっぱら「自分視点」で書いて来たことだけど。。。他者、つまり、相手側からしたら、いや、いや、いや、いや、理解できないのはオマエの方だから、って思っているんだろうなー(苦笑)

註)
* Cf. イザヤ 41:10
** Cf. マタイ 28:20
*** Cf. マタイ 28:17

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