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絶対弁明しきれないけれど弁明してみた。でもやっぱり未完。。。

自分は幼稚園でイエスを信じた。しかし、小学1年のとき無神論者の級友から「イエスは実在しなかった」とツッコミを受け、返す言葉もなく信仰を失った。中学2年のときに信仰を取り戻したけど、父は浄土真宗 ✕ マルクス主義の無神論者だったものだから、またツッコミを受けることになった。でもこのときは大丈夫だった。なぜなら、信仰を取り戻すきっかけになったビリー・グラハムの後楽園球場での説教が「クリスチャンは例外なく迫害される」という内容だったので、ツッコミを受けるのはデフォルトだと理解できていたんだ。

自分がクリスチャンとして心に思っていることは。。。

永遠で無限の存在である創造主がいて
創造主は愛であり
その愛を体験するために
自分は永遠の命を生きている

。。。ということ。これを静かに思っているだけならいいんだけど、それを他のひとに説明し弁明できるよう準備しとけ!って聖書は言うんだよね。

今日の聖書の言葉。

心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
ペトロの手紙一 3:15 新共同訳

自分が信じていることを、どう弁明したらいいんだろう。いつもそれを考える。説明してみて上手く行ったと思えたためしがあんまりない。よくよく考えたら、永遠で無限であるものについて説明するなんて無理じゃね?(笑)

永遠で無限の存在である創造主がいて

蛮勇をふるって、今回はとりあえず、この部分だけ説明してみたいと思う。

まず永遠

「永遠」がほんとにあるかどうかは何とも言えない。自分はイエスのおかげで永遠の命を生き始めていると思っている。けど、それは永遠の最初の一歩に過ぎないわけで。その意味では永遠未経験者、言えても、永遠の途上にある者、ということになる。

でも、少なくとも ①永遠という単語(シニフィアン)があって、②その単語の音声が指し示す概念(シニフィェ)があって、③その概念に対応する実体(レフェラン)があるはずだよね。まあ、すべての概念に即して実体があるわけじゃないけど。ユニコーンとかフェアリーとかドラゴンとか。

だとしても、実体が確認できなければその単語の使用は禁止しろ、という強制は誰にもできないはずだよ。だって、太古の昔から人類の言語概念の中に「永遠」は組み込まれているわけだから。1984のニュースピークとか検閲とか真理省(歴史修正局)は御免蒙る。なので、申し訳ないけど永遠という言葉は永遠に使い続けさせてもらいたい(笑)

つぎに無限

「無限」については、数学で無限集合を取り扱う分野が確立されているので、素朴に無限はあると言っていいんじゃないかと思う。

そして存在

創造主を存在って言っていいのかどうか。逆に、存在を創造主って言っていいのかどうか。でも、創造主自身が名前を開示している箇所が聖書にあって、こう言ってるんだ。

神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である」
出エジプト記 3:14 新改訳2017

創造主は自ら「わたしは『わたしはある』という者である」と言ってるわけだから、それなら、創造主を「存在」と呼んでも差し支えないんじゃないかと思う。あるいは「存在」を創造主と言ってもいいよね。

永遠で無限の存在

「永遠で無限の存在」という概念を自分はいま心に思い描いている。そして、その概念に対応する実体があるとも思っている。問題は、永遠で無限の存在がこの自分にどう関係するのか、ということだ。

ここで福音派のクリスチャンなら進化論と創造論の話にルートが分岐すると思うんだけど、鬼門は避けて、哲学者の井筒俊彦の助けを借りながらこう言いたいと思う。

存在は
絶対未分節の無を

言葉によって分節化して
世界を出現させた

。。。と自分は信じている。ここで「世界」って言ってるけど、世界とは自分のことでもあるよね。だからこれは「存在は絶対未分節の無を言葉によって分節化してわたしを出現させた」と言い換えてもいいと思う。

もしここで「絶対未分節の有である存在は自己分節化して世界になった」と言うのであれば、それは、東洋の汎神論とかヘーゲル左派みたいな世界観になると思う。

あるいは「絶対未分節の無である存在は自己分節化して世界になった」と言うんであれば、禅の十牛図とか現代の量子宇宙論(無がゆらいで宇宙が誕生した)になるんじゃないかな。

自分はそのどちらでもなく「存在は言葉によって絶対未分節の無を分節化して世界を出現させた」と言いたい。なぜなら、そう考えることが創世記やヨハネによる福音書の冒頭に書いてあることに一番ぴったり合うと思うから。

神は言われた。「光あれ」
こうして、光があった

万物は言によって成った
成ったもので、言によらずに成ったものは
何一つなかった

「存在は言葉によって絶対未分節の無を分節化して世界を出現させた」というステートメントは、自分は何者かということに触れて来る。もしこのステートメントが正しいのであれば、自分は意味なく浮遊する曖昧模糊なモノではなくって、「存在」によって意図され、名付けられ、形づくられ、命を与えられ、生かされている自分、という理解になる。これをイメージするとき、自分はなんだか堅固な岩の上に立っている感覚になるんだ。

さらに存在と言葉

「存在は言葉によって絶対未分節の無を分節化して世界を出現させた」というステートメントに出て来る「存在」と「言葉」だけど、この両者の関係って、どういうものなんだろう? 

ヨハネによる福音書の冒頭では、存在は言葉であり、言葉は存在である、と言っている。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
ヨハネによる福音書 1:1-4 新共同訳

存在から出た言葉。。。存在と言葉の関係性は、両者は区別されるけど一体でもある。そういうことが言われている。この存在と言葉との関係性をヨハネによる福音書は別の表現で。。。

父のふところにいる独り子である神

。。。とも言っている。父と子の関係なのだ。

ちょっと待ってよ! ほかにも生まれた子がいるんじゃないの? というギモンが当然わくけど、聖書は「独り子である神」と言ってるから、子はユニークにただひとりだけと想定されていることになるねー。

神は、独り子を世にお遣わしになりました
その方によって
わたしたちが生きるようになるためです
ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました
*⁴

その「独り子である神」とはイエス・キリストである、と自分は信じている。うむぅ。。。今回は力が足らず。。。ここまでか。。。

創造論と進化論というデスマッチを回避するため、言葉と概念の説明だけで弁明しようと思ってやってみたけど、難しいものだね。

もし井筒先生が正しければ、創造主だけでなく、わたしたち人間もまた自分の言葉によって分節化して自分の周囲の世界を作っていることになるわけであり、きっと、そのことを描いているのが創世記第2章だと思うんだ。

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
創世記 2:19 新共同訳

だから、自分が心にどういう概念を抱き、どういう言葉づかいをするかによって、周囲の世界が生まれて行く、変わって行く、ほんとうにそのようになっていく、そういう面があると思うんだ。不思議だけどね。。。

永遠で無限の存在である創造主がいて
創造主は愛であり
その愛を体験するために
自分は永遠の命を生きている

自分はそのように信じ、そのような世界に生きて行きいたいなあ、と思う。

註)
*1.  Cf. 創世記 1:3
*2.  Cf. ヨハネによる福音書 1:3
*3.  Cf. ヨハネによる福音書 1:18
*4.  Cf. ヨハネの手紙一 4:9

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