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仕える=使える=疲れる=からの~使いわける

リーダーシップ論の分野で、サーバント・リーダーシップが、あるときから、注目されたよね。意味は、仕えるリーダー。

怒鳴りつけて、部下を従わせるような、前時代のパワハラ的なリーダーシップが、問題視されるようになって、それを深く反省して、では、イエスさまのリーダーシップはどうだったんだろう、イエスさまに倣おうよ、という考え方からでてきたリーダー論だ。

今日の聖書の言葉。

あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
マタイによる福音書 23:11 新共同訳

仕える者になりなさい、サーバントになりなさい、しもべになりなさい、というのが、リーダーについてのイエスさまの教えだ。

王の王、主の主であり、全宇宙の創造者・保持者・統治者、神の本質の完全な現れ、神の栄光の輝き、と、新約聖書はイエス・キリストを、たたえている。そのキリストが、エプロンを着け、弟子たちの前にひざまづき、素手で、弟子たちの泥だらけの足を、洗った。。。そして、おまえたちも同じようにするんだよ、と教えた *。

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これを実践したリーダーたちが、文字通りエプロンを着け、台所に立つ、掃除する、駐車場係をする、運転する、裏方をする、というムーブメントが起きてきた。それは、もちろん、単に外形的にそういうことをするだけではなく、柔和で、寛容で、包容力をもって、しかも、先頭に立って進んで行って、命を落とすことも恐れない、というキャラクターを身に着けることが、主眼であったわけだけれども。。。

一方、リーダーが徹底的に、ひとに仕える姿勢で臨むときに、じゃあ、理不尽で、不法な要求すらしてくるモンスタークレーマーみたいな人にも、唯々諾々と聞き従わなければいけないの?という実践上の問題が出てきて、それが解決できずに、疲れ果ててしまう人が出てきた。

そこから「一線をきっちり引いて、できないことは、できないと、はっきり言わなきゃいけない」という、バウンダリー(境界線を維持する)の考え方が生まれてきているんだと思う。

ひるがえって聖書を見てみると、聖書には、リーダーのキャラクター像が、とっても複眼的なかたちで、示されている、と思うんだよね。どういうキャラクター像があるか、というと、おおざっぱに言っても、次の6つぐらいは、あるんじゃないのかな。

 ● 族長としてのキャラクター
 ● 祭司としてのキャラクター
 ● 預言者としてのキャラクター
 ● 王としてのキャラクター
 ● 賢人としてのキャラクター
 ● しもべとしてのキャラクター

族長は、大家族を丸抱えで全部面倒をみる、親分肌の人。

祭司は、対立に分け入って、祈りと執り成しによって、和解を導く人。

は、守るべき領域を敵から守るために、戦いの指揮をとる人。

預言者は、神からのメッセージをみんなに伝えて、方向性を決める人。

賢人は、「伝道者の書」や「箴言」みたいに、人生を冷徹にみつめる人。

しもべは、他人の汚れた足を洗う人。

上記の「どれかひとつ」に偏るのではなくて、置かれた状況や文脈で、ギヤーのシフトをチェンジするみたいに、適切なキャラクターを使い分けることが出来れば、最高なのかなー、と思う。

でも、たぶん、いちばん難しいのは、「王」のモードと「しもべ」のモードが、かちあうような時に、どっちに比重をかけたらいいのか、ということ。これは、場面の数だけ答えがあるようなことだから、正解はないのかも。

もしかしたらねー、この30秒は「王」のモードで、臨機応変に、つぎの2分間は「しもべ」に徹する、みたいなことが、必要なのかもしれないね。

註)
* Cf. ヨハネ13:1-17

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