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ウィズコロナ時代の信仰⑪

人は倒れても、打ち捨てられるのではない
主がその手をとらえていてくださる

これは詩編 37:24の言葉です。コロナ禍のために全人類が倒れ伏す経験をしましたが、主がわたしたちの手を取って立ち上がらせてくださることを信じます。主はわたしたちを災いに会うように定められたのではなく、「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(ペトロ一3:9)と言われていることを信じます。

わたしたちはコロナ禍という苦しみの時を通りました。それは、より大きな祝福を受け継ぐためであると信じます。コロナ禍以前の世界では、わたしたちはいろんな素晴らしいものを与えられていました。わたしたちはそれらを誇りに思っていました。しかし、素晴らしいと思っていたものがコロナを通して崩れて行きました。わたしたちはそれを損失だと思っています。しかし、失ったことによって、それよりはるかに優ったものを得られるのであれば、その損失は意味ある損失となると思います。

フィリピ 3:5以下で、パウロは自分が過去にユダヤ教の熱心な信者であったことを語っています。パウロは、高名な律法学者ガマリエルの弟子として律法の研究に心血を注ぎました。その熱心さゆえにパウロはクリスチャンたちを迫害し、命を奪うことさえしました。これがパウロの自叙伝です。

フィリピ 3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。

そういう自分自身をパウロは誇りに思っていました。しかし、ダマスコへの途上で復活のイエスに出会ったことによって、パウロは誇りを完全に打ち砕かれてしまいました。そして、パウロは変わりました。これがパウロの新しい自叙伝です。

フィリピ 3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 9 キリストの内にいる者と認められるためです。

パウロの経験は、コロナを経験したわたしたちにとって模範となるのではないでしょうか。コロナによって、わたしたちは多くのことを手放さなければなりませんでした。それは損失です。しかし、その損失をパウロと同じように捉えることができるのではないでしょうか。大事だと思っていたものを失うことによって、わたしたちは主イエス・キリストの素晴らしさを本当に知ることができるようになるからです。

キリストを知る素晴らしさとは、自分の行いによる満足ではなく、信仰による満足である、というところに素晴らしさの理由があると思います。自分の行いによる満足であれば、しっかり行っていれば、それに応じた満足が与えられます。しかし、行うことができなくなったら、その途端に満足は失われます。コロナ禍にあって、わたしたちは、あれもできない、これもできない、という経験をしました。もし、自分の満足が行いだけに基づいていたら、わたしたちはコロナ禍にあって絶望するしかなかったでしょう。

しかし神は、はるかに優るものをわたしたちに用意してくださいました。それは、信仰による満足です。しかも、この場合の満足とは、人間の側の満足ではありません。神の満足です。父なる神の御心が完全に満足するという意味での神の満足です。それは、イエス・キリストの信仰によって与えられる神の満足です。十字架の死に至るまで父なる神の御心に従いとおされたイエスの従順。そのイエスの従順ゆえに、父なる神の御心は完全に満足されました。そしていま、わたしたちがイエスの十字架と復活を信じるとき、神はイエスのゆえに、わたしたちを神の満足としてくださいます。それはパウロがこのように言っている通りです。

ローマ 4:5しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。 6 同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。7「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。8 主から罪があると見なされない人は、幸いである。」

さらにパウロは言います。「従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです」(ローマ4:5)いったい、どのような信仰によって、わたしたちは世界を受け継ぐのでしょうか? それは、このような信仰によるのです。

ローマ 4:24 わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義(すなわち神の満足)と認められます。25 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義(神の満足)とされるために復活させられたのです。

わたしたちはコロナによって、いろんなことを行えなくなり、誇りを失い、損失を受け、自分にも他人にも満足できない状態になりました。しかし、イエスの十字架と復活を信じる信仰によって、わたしたちは「神の満足」となるのです。いま、父なる神は、イエスに対して言われたのと同じ言葉をわたしたちにかけてくださいます。それはマタイ 3:17の言葉です。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」

神の満足となったわたしたちは、神との間に平和を得ています。この平和は、わたしたちの行いに基づくものではありませんから、誰によっても、何によっても、奪い取られることのない平和です。この平和を、わたしたちはイエス・キリストの信仰により、いま手にしているのです。

この平和のなかで、しかし、苦しみがまたやってきます。いまコロナは終息に向かっているように見えますが、専門家の見解やAIの予測によれば、12月中旬から来年1月にかけて感染者数が再び上昇に転じるだろうと言われています。苦しみの時は、ふたたびやってくるかもしれません。しかし、信仰によって神の満足とされているわたしたちは、苦しみを前向きに受け止めることができるのです。このように言われている通りです。

ローマ 5:1 このように、わたしたちは信仰によって義(神の満足)とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

苦しみを前向きに受け止めるためには、自分の思い通りにならない状況を受け入れる必要があります。それが「忍耐」です。しかし、忍耐しているならば、その状況に慣れて来ます。慣れるだけでなく、その状況の中で新しい物事を生み出すことができるようになります。それが「練達」です。練達することによって、苦しみの中から新しい物事が生まれて、わたしたちはよりよい明日が来ることを確信できるようになります。それが「希望」です。

わたしたちの練達のレベルは、どこまで上がって行くのでしょうか? 忍耐の時が続く限り、そのレベルは上がって行くでしょう。そして、わたしたちの生き方は変えられるのです。変えられることによって、わたしたちはさらに優ったものを得て行くのです。より良い明日、より良い自分の姿は、すべてイエス・キリストのうちに用意されています。みんなでそれを期待し、追い求めて行きましょう。わたしたちは、どこまでレベルアップするのでしょうか。その結論がフィリピ 3:12以下にこのように示されています。

フィリピ 3:12わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。 13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

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