神の怒り、という不穏な概念からスタートして、この世界を何回シミュレートしても、同じクライマックスが出現するんじゃないか、という話です。
「神の怒り」という概念。
この不穏な概念は、どのようにして人類のなかに生まれたんだろうね?
今日の聖書の言葉。
高校の古文の時間に、和歌を教わりながら、面白いなあと思ったのは、神の概念には二つの面があるらしい、ってことだった。
それが、和魂と荒魂だ。
【ニギミタマ】柔和な徳を備えた神霊。「にきたま」とも。「にき」は接頭語(穏やかな。柔らかい。細かい。整った)
【アラミタマ】 激しく活動的な行動をする神。神霊の勇猛な面をいう(by 学研全訳古語辞典)
何万年も日本列島で生活してきたご先祖さまたちの感覚が、こういうコトバに反映されているんだろうなあ、と想像してみる。
たしかにねー。。。穏やかな日々。柔らかい土。細かい雨。整った稲穂。それらを目にして、やすらかな気持ちになれる時もあれば。。。
日照りや泥流や火砕流によって、稲穂がぜーんぶダメにされちゃう時もあるわけで。そしたら、無力感に打ちひしがれるだけだ。。。
ご先祖さまたちは、そういう経験を交互にするなかで、神という超越的な存在には二つの面がある、という考え方になっていったんじゃないかと思う。
おだやかな神、と、激しく怒る神。
人間のコトバがどのように発生したか、っていう謎については、言語学者の間でもよくわかってないらしいけど。。。
でも、コトバは生活から発生する、と仮定するのであれば、コトバは人生のリアリティーを反映している、ってことになるよね。
こっから先は思考実験になるんだけどさ。。。
もしコンピューターのなかに日本列島を完全に再現して、有史以前から現在までシミュレートしたら、そのなかに住むAI人間たちは、やっぱり、ニギミタマ・アラミタマというワードを使うようになるんじゃないだろうか?
だって、穏やかな日々。柔らかい土。細かい雨。整った稲穂。日照り。泥流。火砕流。こうしたものが、三つの大陸プレートがせめぎ合う日本列島では、繰り返し発生するわけだから。
さらに、もしコンピューターのなかで世界を完全にシミュレートできたら、何度やっても、やっぱりその世界には「聖書」が生まれるんじゃないだろうか?
もちろん、われわれが知ってるリアリティーとは全然ちがう設定でシミュレートしたら、「聖書」は生まれないかもしれないけれど、でも、そしたら、それは、別世界をシミュレートしたというだけであって、われわれのリアリティーとは関係の無い話になっちゃう。
こっから先は信仰の領域に入って行くんだけど。。。
世界がコトバを生み、コトバが聖書になった、というのが、シミュレーション仮説で考えた場合の順序だよね。
ところが、ユダヤ教のラビたちは、逆の考え方をした。つまり、聖書のコトバが世界を創造した、と考えたんだ。
果たして、世界がコトバを生成したのか。あるいは、コトバが世界を生成したのか。
これについては、どちらが真であるか、ってことは、永遠にわからないんだよね。どうしてかというと、判定するわれわれが世界内にいるわけだから。
その世界内にいるわれわれが、目にするものは。。。
世界がコトバを生成したとしても、あるいは、コトバが世界を生成したとしても、われわれは同じクライマックスを目にすることになるんじゃないかと思う。って言うか、現に見てるし。。。
それが、十字架と復活だ。
神が、神の怒りを、神自身で受け止めることによって、神の怒りを終わらせる、というクライマックス *。
そのクライマックスにおいて、やさしく柔和な神の面と、激しく怒る神の面が、ひとつに統合されて、永遠の愛になるんだ。
もし、世界がコトバを生成するのだとしたら、何回シミュレートしても、このクライマックスが出現するはずだし。逆に、コトバが世界を生成するのだとしたら、やっぱり、このクライマックスが出現する。
自分はクリスチャンなので、コトバが世界を生成した、というふうに信じている。
だって、聖書にも、こう書いてあるし。
註)
* Cf. ローマ 5:9, テサロニケ一 5:9
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