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人生において後悔し、悔い改める、ってことは、残念って言うより、むしろ、すばらしい特権だ、という話です。

ああ。。。あんなこと。。。しなきゃよかった。。。

という後悔からの。。。

悔い改め。。。

そして、古い自分が死んで、キリストがあたらしい自分を生きてくれる、という信仰の発動。。。

その信仰を発動する祈り。。。

主イエス・キリスト、神の子、救い主
罪人つみびとであるわたしを、あわれんでください

祈り終えたら。。。

ブランドニューの人間になって、世界に一歩を踏み出す。。。

っていうルーチンを繰り返しやっている今日このごろ。。。

みなさま、いかがお過ごしでしょうか?

今日の聖書の言葉。

主は打ち砕かれた心に近くいまし
悔いる霊を救ってくださる。
詩編 34:19 新共同訳

後悔 → 悔い改め → 信仰 → 再出発 っていうサイクルが止まる、あるいは、不要になる瞬間が来ることを自分は期待もし、信じてもいる。

それは、いつかというと。。。

イエスから自分にあたえられている復活のいのちが、フルに顕現して、自分の全存在、霊と魂と体のすべてが、まったく聖化されるときが、それだ。

それについては、新約聖書にこう書かれている。

どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。 
テサロニケの信徒への手紙一 5:23 新共同訳

非のうちどころのないもの。。。

くーっ。。。アコガレルーッ。。。

。。。なぜなら、現状、非、だらけなので。

後悔は人間の特権のように思えるけれど、悪魔は後悔とか、しないんだろうか?

ちょっとそのことが気になったので、カトリック教会のカテキズムを開いてみた。。。

ちなみに、自分の属している教会はプロテスタントなので、これは、個人的な興味による参照という程度なんだけど。。。

悪魔について、こう書かれていた。

サタンは初め、神に造られたよい天使でした・・・
(天使たちの)堕罪は、被造の霊が自由な選択によって、神とその支配を徹底的に、また撤回できない方法で拒絶したことにあります・・・
神の無量の慈悲に欠けるところがあるからではなく、天使たちの選択が撤回できないものであることこそ、その罪をゆるされえないものにします・・・
『カトリック教会のカテキズム』391-393

撤回不可能な選択。。。だから、ゆるされることが不可能だ、と言う。。。

ナニソレコワイ ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

人間は、悔い改めれば、何度でもゆるされることが可能なのに、どうして、天使(悪魔)には、それが不可能なんだろう?

それについて、自分なりに考えてみたんだけれど。。。

人間の場合、身体を持って、時空の連続体のなかで生きているわけじゃん?

なので、人間の意識が「ある」のは、永遠の未来と、永遠の過去が、ガーンってぶつかる衝突面である「現在」だけ。その現在の範囲は、前後ふくめて、わずか3秒ぐらいだ。

その、わずか3秒の世界のなかで、人間は間違った決断や選択をやらかす。仏教的に言えば、刹那せつなだよね。

で、3600秒ぐらい経過して、過去をふりかえって、3600秒前の「3秒間」に行った自分の間違った選択を、後悔し、悩むわけ。。。

だから、後悔することができる、っていうのは、時空の連続体のなかに存在する人間だけしか、できないことなのかもしれない。。。

いや。。。金魚やスズメやヤモリや猫も、もしかしたら後悔するのかもしれないけれど。。。

これに対して、天使は、時空の連続体の外部にいる、霊的な存在だ。

つまり、天使が生きているのは、3秒間の衝突面ではなく、永遠の永遠を生きてる、ってことになるんだよね。

なので、天使が行う選択は、刹那ではなく、永遠の過去と、永遠の未来を、すべて見はるかしたうえで、永遠の意識のなかで、行っている選択なんだ。

その選択は、36秒たっても、3600秒たっても、3600億年たっても、変わることがない。それゆえ、決して、後悔することがない。

そう考えると、アタマがくらくらして、気が遠くなりそうになる。

すると、むしろ、ありがたいことなんだよね。今日こうして、後悔することができる、悔い改めることができる、ってことは。

それゆえに、天使たちは、人間が悔い改める姿を見ると、大喜びするんじゃないだろうか?

だって、それは、天使たちにはけっしてできないことだから。

このように、一人の罪人が悔い改めれば
神の天使たちの間に喜びがある
 *

註)
*  Cf. ルカ 15:10

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