#987 おせち料理を超越した究極の食卓、っていう話です。
生きることは祈ること。祈ることは生きること。
って言えると思うけど、その一方で。。。
生きることは食べること。食べることは生きること。
っていうふうにも言えるんじゃないかと思う。
正月からスタートしたあたらしい一年。自分はどんな祈りをささげ、どんなモノを食べて、生きていくんだろうか。。。
今日の聖書の言葉。
正月のおせち料理って、祈りと食事が融合したものなんじゃないかなー、って思う。
自分が小さかったころ、正月のたびに父がおせち料理のアイテムに込められた意味をひとつひとつ解説してくれたのをおぼえている。。。
いま思うと、それってユダヤ人の過ぎ越しの食事に似ているなー、って感じる。
イスラエルの民がエジプトから脱出したことを記念する過ぎ越しの食事でも、家長である父親が料理に込められた意味をひとつずつ解説して祈りをささげるんだよね。
家族が集まって、祈りの思いを込めて、いっしょに食事をする。
そこには、どうか今年も家族で食卓を囲み続けることができますように。食卓に食べ物が欠けることがありませんように。食卓から誰ひとり欠けることがありませんように。。。そういう願いが込められているんだろうなあ、って思う。
にしてもね。。。人間には寿命が定まっているわけだから、どんなに屠蘇延命散の杯を重ねたところで、命数を無限に伸ばせるものでもない。
だから、正月の食卓から、ひとり・また・ひとり、だれかが抜けて行くことになる。
おせちの意味を解説してくれた父も、もうだいぶ前になくなったし、いずれはこの自分が食卓からいなくなる順番が来るだろう。。。
そうなるとねー、考えちゃう。死ぬときはひとりで死ぬわけだから、今日という日、この食卓でみんなと一緒に食べられるあいだに、できるだけいっぱい食べておこう、って。
なので、お雑煮はやっぱりお餅を3コね! なーんて言ってみたりして。。。
でも、今日の聖書の言葉を読んで、ああ、そうだった。たとえ死んでもずーっと続く食卓があるんだ、ってことにもう一度気づかされた。
それはイエスと囲む食卓だ。
だれかわたしの声を聞いて
戸を開ける者があれば
わたしは中に入ってその者と共に食事をし
彼もまた
わたしと共に食事をするであろう
この場合の食卓というのは、自分のハートのまんなかにあるスペースということだね。
自分のハートのまんなかにイエスが入ってくれて、そこで自分とイエスが一緒に食事をする、っていう。。。
このイエスとの食事は、今日いまこの瞬間も・明日も・あさっても・ずーっとこの先も・永遠までも続いて行くものだ。
自分のハートのなかにいるイエス。。。窮屈な思いをイエスにさせているんじゃないか、って思ってしまうけれど。。。
でも、ノリッジの聖ジュリアン(1342-1413)が見たビジョンによると、それがどうもそうでもないらしい。
だって、こんな感じだもん。
すごいよね。ノリッジの聖ジュリアンが見たビジョンによれば、個人の魂っていうのは、無限の大きさを持つ町みたいにビッグサイズで、そこにイエスが一緒に住んでくれるから、個人の魂それ自体が祝福された「神の国」になる、って言うんだ。
ちょっと想像してみる。。。
自分の心のドアをイエスに向かって開く。するとイエスが自分のハートに入って来てくれる。
どこまでも広がるそのスペースは、もし自分ひとりきりだったら、どんなにさびしい場所だろう。
でも、そのスペースの中心にイエスがいてくれる。イエスは「神」だから、無限の栄光の輝きと臨在で、自分のハートを満たしてくれる。
そして思うんだ。水をぶどう酒に変えたイエスだから、ありとあらゆる種類のごちそうを用意できるにちがいないって。
わたしは中に入ってその者と共に食事をし
彼もまた
わたしと共に食事をするであろう
なので、祈りを込めて食卓に並べられるそのアイテムの数は、おせち料理の重箱なんかじゃ収まりきらないぐらいゴージャスに違いないんだ。
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