老眼が進み、メガネを上げ下げしながら、あーでもない、こーでもない、と考えている自分は、テキストが生成された現場の空気感にリアルに触れることができるんだろうか、っていう話です。
今日も聖書を読んでいる。
それは、まあ、テキストを読む、という行為であるわけなんだけど。。。
ペーパーに印刷されたインキが発色する文字の羅列。。。
だから、老眼が進む身には、きびしいよね、細かいヤツは。。。
先々週、愛用していた遠近両用メガネのツルが破断したもんだから。。。いま新しいのを注文中だけど、納品まで1週間かかる。。。なので、昔のメガネをひっぱりだして、見えるような、見えないような、見えないよう、見えるような、かすむテキストに苦心している。
今日の聖書の言葉。
そのとき、わたしは主の御声を聞いた。 「誰を遣わすべきか。 誰が我々に代わって行くだろうか。」 わたしは言った。 「わたしがここにおります。 わたしを遣わしてください。」
イザヤ書 6:8 新共同訳
そのテキストは、神の発言として「われわれ」と言っている。
誰を遣わすべきか
誰が我々に代わって行くだろうか
音素にしたら、わ・れ・わ・れ、という、わずか4文字だよね。
わ・れ・わ・れ、と言う「神」とは?
その音素が指し示している概念は、いったい、なんであるのか?
さらに、その概念が指し示すところの実体は、なんであるのか?
そして、はたして、そういう実体は、実在するのかどうか?
そういうことを考え始めると、ほんとにね、もう、キリが無い。。。
テキストも、かすんでいるし、概念も、実体も、実在も、かすんでいる。
だけどねー。。。
今日の聖書の言葉に記録されている出来事を、イザヤがリアルに体験した現場においては。。。
それは。。。テキストじゃあ、なかったんだよね。。。
なまの音声だったんだ!
誰を遣わすべきか
誰が我々に代わって行くだろうか
しかも、エルサレムの神殿の敷居を震わせるほどの大音声。。。
そりゃ、大きいだろうね。なにせ、神が発話したわけだから。。。
だから、イザヤにとっては五臓六腑がビリビリ震える経験だったハズ。
指先にテキストを持ってメガネを上げ下げしながら、あーでもない、こーでもないって、ボーっと考える自分の読み方なんかとは、まるで次元を異にする体験だったに違いないんだ。
神のリアルな発話を聞いたイザヤは、自分の存在を根底から揺さぶられたんじゃないかと思う。
ほんと、気絶しなかったのが不思議。。。エゼキエルだってダニエルだって気絶してるのに。あと、ヨハネも *。。。
なので、神が神を指して「われわれ」と言ってる、ってことについては、果たしてそれが、尊厳の複数形(Pluralis Majestatis)を意味するのか、卓越の複数形(Pluralis Excellentiae)を意味するのか、三位一体の神秘(Mysterium Trinitatis)を意味するのか、つらつら考える余裕はイザヤには無かったろう。
圧倒され、もみくちゃにされ、押しつぶされ、ひきのばされ、まっすぐにされ、炎で精錬され、輝くほどに真っ白にされたイザヤは、わけもわからずこう言っている自分を発見して、自分で自分を驚く、というヒマすらなかったに違いない。
わたしがここにおります
わたしを遣わしてください
そういうビリビリ感は、残念ながら、印刷された文字の羅列では、カバーしきれていないよね。
その残念な感覚を、なんと表現したらいいんだろうか。。。
フルトヴェングラーの第九のレコードのジャケットの文字を読んだだけでは、なまの演奏のビリビリ感を五臓六腑で感じることは到底出来ない。。。それと似たようなものだろうか。
しかし。。。そうではあっても。。。
祈りのココロをもってテキストを読むなら、すこしは、リアルに感じることができるかもしれない、と期待もし、信じもする。
きっと、テキストの文字と文字の行間が、掬いきれない何かで空けてあるのは、その隙間から「聖霊」の風が吹き込んで、イザヤが吸ったのと同じ空気にわれわれを触れさせるためかもしれない、と思うんだ。
註)
* Cf. エゼキエル 1:28, ダニエル 10:9, 黙示録 1:17
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