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宇宙の根幹に触れる情報を伝えるのに、何冊の本が必要なのか?

立花隆が亡くなった。

好奇心旺盛な知のかたまりの巨人、っていうイメージ。

自分が影響を受けたのは『中核 vs 革マル』と『臨死体験』だ。

後者で紹介されてるキューブラー・ロスの「いもむしを裏返すと蝶になるぬいぐるみ」の逸話は、死についての自分の基本的なイメージになっている。

もうひとり尊敬する知の巨人がいる。中学の時に工作舎の『遊』を愛読して以来ファンである松岡正剛だ。

『千夜千冊』っていう書評エッセイを書き続けていて、最新が1781夜。

とっくに千夜、過ぎてるじゃん。。。

自分はそのサンダルの紐を解く値打ちもないけれど、千本ノックならぬ千本noteを目指すモチベになっている。

その立花隆と松岡正剛の書棚比べというチャレンジがあって。。。

もうね、スゲーとしか言いようがない。。。

「スゴ本」というブログが行った企画なんだけど、軍配はどっちに上がったか、と言うと。。。

物量では立花隆(20万冊)が圧勝。

でも、質量では松岡正剛(5万冊)に軍配が上がった。

今日の聖書の言葉。

そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。」
マタイによる福音書 9:37 新共同訳

われわれが放り込まれている世界の成り立ちの謎を知るには、20万冊の情報量でも、5万冊の情報量でも、まだまだ足りないんだろうけれど。。。

しかし、新約聖書は、わずか 27冊で、この宇宙の「ほんとう」を、ぜーんぶ伝えようとするんだよね。

その 27冊のボリュームにしても、各冊単位でみれば「薄い本」としか言いようがない薄さであって。。。

まあ、逆の意味で野心的と言うかなんと言うか。。。

そもそも、その薄い本ですら、なかなか執筆されなかった感がある。

っていうのは、イエスが十字架にかかり復活したのが西暦33年頃のこと。

そのイエスの出来事をマルコが本に書いたのは、早い年代を取った場合でも西暦48年頃。復活から15年後のことだ。

じゃあ、イエスの出来事という、宇宙の根幹に触れる情報は、その15年間の「空白」において、どうやって伝えられてたんだろうね?

基本的には、イエスの弟子たちが、オーラルコミュニケーション、つまり、口から口へとひとづてに伝えていたことになる。

だから、ひと、が必要だったわけだよね。ひと、が、ひと、のところへ行って、伝えるしかないわけだから。

収穫は多いが、働き手が少ない

で、当然、対面できない状況が出て来た場合には、オーラルコミュニケーションの補完として「手紙」を書いて送る、ってことになる。

新約聖書を構成する27冊のうち、イエスの出来事を書いた福音書、聖霊の出来事を書いた使徒言行録、終末の出来事を書いた黙示録を除いた、21冊が手紙だ。

手紙の本数としては、すっごい少ないよね。。。

だって、もし、松岡正剛みたいな勢いなら、千夜千冊だもん。使徒が手紙を千本残してたって、ちっとも不思議はないわけで。。。

不思議なほど薄い、新約聖書。

そのことを考えると、宇宙の根幹に触れるイエスの出来事っていうのは、情報量としては、いわゆる「知」のレベルとは異なっていて、最小限の表現でおさまってしまう、ってことなのかもしれない。

その最小限の表現を、どこまで凝縮できるかってことだけど。。。

新約聖書の図書化以前の15年間に、ひと、から、ひと、へ対面の発話で伝えられていた、このメッセージ

キリストは、よみがえられた!
ほんとうに、よみがえられた!

やっぱり、これになるんじゃないかなあ。


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