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無力感

 時々、考えてしまう。

ー自分は何で福祉という仕事を選び、今まで続けられているのだろうかー

 周りから押し付けられたわけではない。自分で決めた。
 家族に医療従事者がいて、そのことに影響された。だったら、医療従事者になれば良いと思うかもしれないが、ならなかったのは、なんとなく「自分には無理だ」と思ってしまったから。でも、今思えば、リハビリの専門職という選択肢もあったはず。
 いざ、関わると「自分ができることをちゃんとやる」ことが介護では向いていたのかもしれない。

 これまでの仕事では、福祉・介護一筋。これはいい事なのか。経験では不十分とも思えてしまう。

 利用者からは「ありがとう」「助かった」と言われることもあるが、はっきり言って、何も言われなかったり、暴言や苦情を言われることの方が多い。時には、脅迫みたいなことも受けたことがある。

 どんなに丁寧に支援しても、利用者が満足していない。そして、本人の思いが受け止められなかったことの反省ばかり。どんなに支援しても、モヤモヤした想い。自分がしていることが利用者のためになっているんだろうか。利用者に対して「やりたくもない努力や無理」「スタッフや家族からの強制」「やればできるという思い込み」をさせているのではないだろうか。
 できることやできないことは利用者や支援者は分かっているはずなのに、お互いに遠慮させたり、無理をさせていることが分かり、変な雰囲気になる。

 100%の満足度のために支援員はどれだけ頑張ればいいのか。100%ではいけない。

 と思っていた。そして、利用者すべての要望を「一人」ではできないと気付いたときに、ますます「自分には何ができるのか」を考えるようになった。
 「できない」、マイナス(?)から始まる支援を「できる」まで支援する。本人の意欲や能力をどこまで支援できるのか、自信がなくなったこともあります。
 「100%の支援をする」ことはできないけれど、「100%に近づける支援をする」ことで、心の安定を保っている。
 「無理をしなくていいよ」と言ってくれることはあるけれど、利用者は無理をしてでもしてほしい。要望を叶えるためには支援者は無理をして、できないことを伝えるときに無力感を感じてしまう。
 「利用者のため」が時々誰のためなのかが分からなくなる恐怖と不安。

 そこまで、福祉にこだわるのはなぜだろう。

 僕が大学に入った時は、ちょうど介護保険法が施行されるとき。ということは、色々な福祉の制度が大きく変わるとき。
 世間でも『福祉の仕事は必要だ』と言われており、気にはなっていたこと。大学を選ぶときでも『福祉』を中心に選んだ。高校の進路担当の先生からは、もう少し上位の大学はどうか、とも言われていたが、福祉を選んだ。大学に行ってからは福祉に対する考え方が変わったのかと言えば、僕の中では「あまり変化がない」と言ったほうが良い。近所で高齢者や障がい者がいて接する機会が多かったから違和感がなかった。でも、学べば学ぶほど「福祉の責任感」が分かってきた。
 でも、無力感はその当時は感じていなかったね。できなくても気合で何とかなると思っていた。

 これからも・・・

 時代と共に、「利用者の闇」「支援者の闇」は広くなっていく。理解しようと思っても理解しきれないもどかしさ。

「何でこうなってしまったのか」
「どこまで支援していいのか」と自問している。

 ぼくには何ができる?
 もしかしたら何もできていないかもしれない。
 できていないことをできると言っているのはないか。

 自分が自分でなくならないように力をつけないとね。
 利用者を利用者として接することができるように力をつけないとね。
 でも、その力に押しつぶされないようにしないといけないね。

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